尾崎豊論/声への歓待 第1章 「聴く」ことと実践用語批判
Ⅰ 「聴く」ことと実践用語批判
『街路樹』の一曲目「核(core)」。その声。まるで不安そのものが現前するようだ。それは、メロディーでもリズムでも、バックの演奏でもなく、明らかに破綻している構成でもない。曲の全てが、絶え間ない不安に押しつぶされかかっている声の格闘なのである。
「核(core)」には、「15の夜」のように、優しいピアノのリフはない。自らの心に宿った不安に抗することも出来ず弄ばれる少年に寄り添った支えの存在がないのだ。ここでは、ピアノですら声と対峙し、絡みついている。むしろその二者を切り裂くためであるかのように、ブルース・ハープが吠える。他の楽器たちも、「15の夜」ではしばらく静かに息を潜め、やがて少しずつ前進し、サビに向かった途端にみんなで駆け上がる。が、「核(core)」は最後までバラバラなまま。とってつけたような盛り上がりは、むしろ彼らのまとまりの無さそのものの突出でしかない。
しかし、「核(core)」は、いつまでも耳に残る。それは「反核」のオブセッションなどから来るのではない。そう言った主題を持つ他の歌たちとは全く違う存在感を持っているのだ。
鷲田清一は、「他者の声を聴くことの根底には、『自―他、内―外、能動―受動という区別を超えたいわば相互浸透的な場』に触れるという経験がある」(前掲書中「〈ふれる〉と〈さわる〉」)と言っている。「核(core)」と題された曲から響いてくる声は、鷲田の言うように、「他者の声の/異質さ」を感じさせる。その上で、「聴く」者は「自己のもとにふたたびたしかに送り返される」。そういう経験が、ここにある。それはなぜか。
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