ワタシの大切なボク‐第1話 巨人の星と
「野球ってのはもうやめた方が良いんだよね。」 小学校に入る前から通っている病院のお医者さんはそう言っていた。
「そうですよね。」と母は言っていた。
ボクはなにも答えなかった。
答えない理由を横で聞いている看護婦さんが理解しようとしてくれる感じは星飛雄馬のお姉さん明子さんの雰囲気と似ていて、この病院というか医院はキライじゃなかったのだけど、一番のキライじゃないワケはお医者さんの指示であの明子さんじゃない方の看護婦さんが何かと何かのクリームのような軟膏なのかをネリネリして出来上がるプラスチックケース満タンのクスリ。そのクスリをこちらが要求しなくても、ボクの全身をお医者さんが眺めれば、あんまり使いすぎるなと条件はつけられた上で交渉はまとまる。
手にしたそいつをボクが掻き散らかしたところに塗り付けるとグジュグジュだった皮膚からクスリが体内にスーッと吸収されて、痒みは治まって、痒いところを掻くという快感に対する罰だともいえる熱をもったキツい痛みもほぼ無くなった。
その罰からの解放感が嬉しくて風呂あがりに、さらにそいつを顔から首じゅう、肘と膝の内側と背中に塗りたくって一晩も寝るとグジュグジュは瘡蓋【かさぶた】になり、クスリをもらった取引から24時間後には一部は瘡蓋さえもボロっと取れ始めて新しい皮膚が生成されている。
いま思えば一般的には薬のようでボクにはクスリだった。
クスリはヤクザさんが独占的に扱うものだから付き合いのないボクは使ったことはないけど、アレに手をつけるとやめられない。
その感覚は知っている。
もし、あの見た目は生クリームのようなあれがボクにとってのクスリならそれを買い付けてきて製造するお医者さんはヤクザのボスで、理解のある明子姉さんとネリネリする看護婦さんはボスに手懐けられた手下で。
取引相手の母に対して、ネリネリは屈まないと相手の顔を窺うことができないちっちゃな窓口を通してそっと末端価格を提示して、母はうなづき金を差し出し紙袋に入ったクスリを手にする。
立体的なものを入れるためではない紙袋に無理くりに入れられたいつものあいつを上目遣いに受け取り、鼻歌まじりに塗りたくり、爽快な解放感を得てるのはボクだから、母を手下に抱えるボクはボスだっだと言える。
幼少時からアトピー性皮膚炎のそのボスは市内で優勝を争う少年野球チームのキャッチャーで4番バッターでもあった。
水島新司が決めたのか太ったやつはキャッチャー。
身体がでかいのが4番。
身体が小さい子はセカンドで2番バッター。
試合での結果は置いといてそういう配置がチームとして文句なく心地が良かった時代だった。
そして、ボクは太ってる方の見本みたいな野球少年でもあった。
ボクは小学校の6年生。その年の春には中学生になる。
休みの日は試合や練習で紫外線にバリバリ当たり、汗まみれな上に、泥だらけ、アトピーに良いことなんかなければ悪いことしかない。
シンちゃんは身体が大きいから、せめて室内のスポーツで柔道とかやったらいいんじゃないかね。
そう話しかけるお医者さんは至極真っ当なことをアドバイスしてくれていたと思うが、野球が取り上げられちゃう日常ってのは想像が出来ないというか、自分には関係のないことを言ってるような気がするくらいでもあって、なぜそんな感覚でいられたのかといえば、少々痒くて辛かろうが医院のボスが売ってくれるクスリはいつでもボクを救ってくれるというあの快感に満ちた体験がしっかりと脳みそに染みついて定着していたからかもしれない。
ただ、子供が痒みを我慢できずに皮膚を一枚剥がすかのように掻き散らかし、布団もシーツも血まみれになり、リンパ液が出てても、それでも掻き続ける息子に対して
「掻くな!」
とも言えず、ただそれを見つめ一通り掻き終えれば痛みに変わって眠れなくなった息子のグジュグジュ状態の皮膚を冷やしてあげることしか出来ない母の心の痛みを想像することはボクには出来なかった。
今思えば
「掻くな!」
と言われたことはないけど、寝てるのか寝てないのかわからない朦朧としながら掻いてる時に、優しい声で
「掻かないで。」
と頼み込むような母の声は覚えている。
【目次】
第1話 巨人の星と
第2話 イダパンと
第3話 口裂け女と
第4話 弟と
第5話 兄と
第6話 7人家族と
第7話 高校野球と
第8話 病院と
第9話 アトピーと
第10話 先生と
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