脳とココロで感じたこと
先週の土曜日に大学のイベントに参加してきました。
ヘルスキーパーっていう職業に就いてる卒業生と
ヘルスキーパーに興味を持ってる学生が
学びを通して交流をはかるをいう趣旨のイベントでした。
ワタシは、ヘルスキーパーに興味を持ってる学生
ってのにボックリと当てはまってまして
迷うことなく参加ってことで行ってきました。
とっても良かったんです。
(良かったわぁ。)
ってシミジミ感をまとわせた良かった感。
この(良かった。)
って感覚が何から生まれてんだかって
自分の脳を使って自らの脳ん中を探ってみると
いろんな(良かった。)があるんです。
使えそうな学びが良かった。
知らなかったことを知れて良かった。
おもろそうな人に会えて良かった。
そんなこんながいろいろありました。
でも、ここらへんの(良かった。)にはどうも、
シミジミって言葉を使いたくなったのとはちょっと違う。
なにか別の(良かった。)
ってのが、どうもなんだかであるんですよね。
そいつがなんだかってのは
脳ん中にある感じではなくて
ココロんとこにありそうなやつな気がして
今度は脳でココロん中を捜査してみるわけです。
(何がそんなに良かったんだ?)
(それって明確な言葉になるのか?)
って脳がココロに証拠を突き付けて探ってみる。
(なんなんかなぁ??)
って時のワタシの顔は
傍から見れば恐ろしくボーっとした顔だったことでしょうが
傍からは見えない脳デカがココロ容疑者に対して行ってる捜査では
罵声や暴力なんかは使わずに尋問してて
頃合いを見計らって脳デカがカツ丼を出してきて
(腹も減っただろ。)
(なぁ、、いったい何が良かったんだ?)
ってウザい尋問みたいなのがウジウジ行われて。
いよいよココロが白状するわけです。
ってアホな話になっちゃいましたが、、
なにが(良かった。)のかってのを
じっくりと見つめてみて分かった気がしました。
参加してる人たちが当り前ではあるんですけど
みんな視覚障害者なんですよね。
このイベントでは当たり前ですけど、
そんな空間は日常ではほぼない。
変な例えになっちゃいますけど、
ハーレーダビットソンのバイクに乗ってるオーナーたちが
自慢のハーレーでどっかに集まって
みんなでドッシリとツーリング。
みたいな。
ま、変です。変な例えなんですけど。
はじめて会った知らない人でも
ハーレー愛しちゃったんだってところで、
ヴァリ!っと繋がってるもんだから
もうそれでもって仲間っていうか、
なんか近いというか、確実に近い。
初対面の共通の言語が使えたりするもんだから
やっぱり近い。
そんな感覚のやつなんです。
きっと、週末にココロが感じていた
(良かった。)って感覚。
カツ丼につられたんだか脳の優しさにほだされたのだかで
ココロがゲロした感覚。
見え方は人それぞれ過ぎるくらいにそれぞれなはずなんですけど、
視覚に障害があるのです。
って人たちが集まった。
年齢とか年齢に関係ない経験だとかはみんな違うんですけど
視覚に障害があるのは同じ。
全国に何人のハーレーオーナーがいるのかは知りませんが、
希少なバイクに乗ってて、そいつを愛しちゃった
希少な人たち。
ワタシらも視覚障害者という希少なな人たちで、
ヘルスキーパーをやってるとかやりたいとかってので
さらに希少なところで繋がってる人が集まってる空間に
身を置いてるだけでも
なんか、
(良かった。)
って思えるんですね。
ん、
感じてたんだと思います。
ココロが。
それで勇気をもらったんだとか、
それが大事だとか大切だとか、
なんかそういうのではなくて、
ただ、
(良かった。)
ってココロが白状した感覚だけでも、
行ってみて参加してみて
良かった。
そう言葉として発したい週末の体験でした。
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