見出し画像

2011.3.11 東京 有楽町にて

生まれも育ちも埼玉県。

幼い時に両親が離婚し、母に育ててもらった私。父親の実家は宮城県であったが、遊びに行ったのは確か4歳が最後であった。

そんな私だが、やはり震災に関連した様々な気持ちは10年が経っても鮮明に残っているし、これからも忘れることはないのだろう。

東日本大震災について、感じることもたくさんあるがそれを表現する自信がないため、それは胸にとどめることとして、今回は「その時」の自分の状況をとつとつと書いていこうと思う。



あの日、私は山手線は有楽町駅のそばの職場にいた。

いつものように出勤し、いつもと同じ業務をこなしていた。夜には幼馴染のさとちゃんと神田祭に行く約束をしていた。金曜日だったので、それも手伝って気分はウキウキとしていたのだ。早く夜にならないかな、なんて思いながら淡々と業務をこなしていたその時。

地震が起きた。

当時私は26歳。その4年前に起きた新潟中越沖地震も自宅が大きく揺れ、その夜は余震も多かったように記憶しているが、それ以上に大きく長い揺れだと感じた。

デスクの下に潜る。

揺れが収まると、フロアの遠くでは誰かがテレビをつける様子が見えた。

東北が震源の大きな地震があった。その時は、それしかわからなかった。

またもや大きな揺れ。

慌ててデスクの下に潜る。

今でこそ全員分配備されているのかもしれないが、当時は災害用ヘルメットなんて部署に1つ2つあるくらいであった。ロッカーに吊り下げられているそのヘルメットを手に取る者はいなかった。

私のいたビルは7階建て。ドンっというはじめの揺れのあとも、ゆ〜らゆ〜らとゆっくりと、後をひいた。わざと揺らして揺れの衝撃を逃しているのだとその時に誰かが言っていた。

断続的に続く経験したことのない揺れに、いつもの地震とはちょっと違うぞと思い始めていた。

上司から、仕事は中断して待機をするよう指示が出たので、外に出ている営業職員の安否確認をと思ったが、この頃には電話回線が繋がらなくなっていた。

女性の営業職員の1人が帰室した。電車が止まっているという。パンプスだと徒歩で帰宅をするのが大変なので、目についた靴屋でスニーカーを買ったと話した。営業職員には私たち事務員とは異なる指示があったようで、可能な者は帰宅をすることになっていたので、その営業職員はスニーカーを履いて帰っていった。

職場の窓から有楽町駅を見てみると、駅には長蛇の列ができていた。

電車が再び動き出すのを待っているのだろう。

電車はいつ動くだろうか。

神田祭に間に合うだろうか。

この時点では、電車は数時間後には再開するだろうし、祭も開催されるものだと認識していた。

まんじりともせず待機をしていたら、テレビのある部屋からざわめきが聴こえてきた。あっという間に人だかりができた。

私もテレビを見ようと、自分の携帯のワンセグをつけてみた。(当時はまだガラケーが主流であり、ワンセグ機能がついている携帯も多かった)

ニュース映像が映った。

この時最初に目にしたのは、宮城の田んぼの上を波が走っている映像である。

「嘘‥」

非現実的なその状況に、まさに息をのんだ。

そんな時、上司から帰宅してよしという一報が入った。

有楽町駅をみると、電車は動いてなさそうなのに、先ほどよりも混雑している様子であった。

埼玉の自宅に帰るには、有楽町駅から山手線か有楽町線に乗るか、東京駅まで行って丸の内線に乗るかをして池袋まで行かなくてはならない。そこからさらに西武池袋線に乗らなくてはならない。

帰れなさそうな人は職場に泊まるという話が出ていたので、私も翌日ゆっくり帰ろうと思い職場に泊まることにした。ランチのためにとストックしていたカップラーメンを食べ、自分のデスクに突っ伏して夜を明かした。家族はみな仕事に出ていて都内にいたのでメールで連絡をとった。

夜は中々寝付けなかったが、頭のどこかが冴え渡っていて、疲れを感じなかった。

神田祭は中止となった。


翌日。電車は動いているようで、駅の外から見るに人もまばらのようだった。

会社の先輩と東京駅北口のそばにある小さな蕎麦屋に入り、朝ごはんを食べた。

周りの客も、皆どこかで夜を明かしたらしく気だるいような雰囲気が漂っていた。

帰りの電車は空いていた。

でもどのようにして帰宅をしたかはあまり覚えていない。

帰宅をすると、自室の2つある本棚が、普段布団を敷いているあたりに重なるようにして倒れていた。雑誌や文庫本がギュウギュウに詰まった本棚。もし地震が起きた時に就寝中であったなら怪我どころでは済まなかったかもしれない。

明けて月曜。

私の住む最寄り駅まで電車が来ず、自転車で1時間をかけて電車が動いている駅まで行き出勤した。私の家の近所に住む営業職員が、電車がないので休みますという電話連絡を私が受けた時は彼女は気まずかっただろう。私も気まずかったし、私も休めばよかったと思った。

都内も埼玉も、コンビニやスーパーから様々な商品が姿を消した。

そしてペットボトル飲料に購入制限ができた。1人1本までだったが、それも数人しか買えなかった。自動販売機はすでに売り切ればかりだった。パンも姿を消した。カップラーメンもどんどんなくなっていった。余りにもがらんとしたスーパーで、店員に「倉庫にあるんだろ!出せ!」と怒鳴っている客もいた。

1ヶ月くらいすると段々と商品が戻ってきた。食パンが棚に並んでいるのを見たときには感動したものだ。


その2年後、私は勤めていた会社を辞め看護学校に入学した。

そして今は看護師をしている。

同期の看護師には、震災を経験して看護師を目指した子が多かった。

私は直接的な動機ではないけれど、災害に遭った時、ほんのわずかにでも貢献することができるよう看護の経験を積んでいきたいと思っている。


#それぞれの10年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?