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それでも恋は、恋。

前回の記事を書いたあと、ほどなくして43歳になった。
子供の頃からつねづね「早く大人になりたい」と思っていて、ゲイ能界の巷間に横たわる【若さこそ正義】といった怨念のような概念に触れるたびに薄ら笑いを浮かべてやり過ごす僕には、見た目や感性の老いに多少の抵抗はするものの加齢にともなうネガティブな感情はない。

ただ、やっぱり笑ってしまう。
「お前が43歳かよ」と。

その年齢に達した日に、その年齢に対する畏怖感のようなものを抱くようになったのはいつからだろう。
児童から少年に変わる13歳か、少女Aとは呼ばれなくなるであろう18歳か、ニキビを吹き出物と呼ばなければいけない20歳か、ヴァンサンカン・結婚を意識し始める25歳か。
さておき、いつの頃からか僕にとっての誕生日は、人としてその年齢に相応しくないだろうと萎縮してしまう日となった。

相応しいか否かなど、もともと正解があるわけではない。
何らかの意味を持たせようとした挙げ句、その意味に添い遂げようとするなど、誰にも求められていない。
その日がくれば誰彼問わず平等に残酷に年齢が1つ増すだけのこと。
だからこそ、いたるところで「年齢別モテコーデ!」「時代はアンチエイジング!」「コムスメvs艶女(アデージョ)」と枚挙に暇がないほど年齢を弄ぶ字面を見聞きするわけで、結局のところはメディアに翻弄される己の芯の弱さを露呈しているだけなのだ。

大人になるにはそれ相応の経験値が必要なんだろう。
さてどうする?と、自分の興味が向いて矜持が許す範囲(それはとてもとても狭いものではあるけれど)で、積み重ねてきたそれなりの経験の数々。
恋愛もそのうちの一つだったけれど、後回しにして来たいくつかの一つでもある。
なにせ一人じゃできない、開始のタイミングも維持も自分の思い通りにはならない。
とかく他人との距離感を掴むことに執心しがちで、他人の視線や言動に過敏な人種には困難な要素しかない。
恋に恋い焦がれ恋に泣く、とは言わないまでも、どうしたらいいのかわからないまま酒や煙草が呑める年齢を迎えそうだった。

それが突然始まって、あれよれよと言う間に四半世紀が過ぎてもまだ終わってはいない。
枯れ草だって点け火をすれば誰かの灯となり暖にもなる四半世紀の恋愛も、世間様への餞になりそうなゴシップ感に溢れた恋愛も、振り向けば経験値を増やすには十分すぎるくらいだ。
恋が始まった瞬間からその後少し頭が冷えるまでの高揚感、期待感、焦燥感。
ワクワクするような感覚を今思い出しても心地よい恋愛ができたことはきっと幸せなこと。

いつか自分の恋愛を、記憶をたどって話し込むようなたとえ話にする日が来たら。
その時のために仕込んでおこう。
古いネタも、これから仕入れる新しいネタも。
自分の恋の対象が自分以外に恋をしても、それさえも好きになれるような自分でいたいし、そういう人にまためぐり逢いたいと思う。




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