ひとつめ「おつう」
私は人間が大好きだ。だが興味がない。
これはアラフィフと呼ばれるようになった最近、自身と対話し続けて行き着いた矛盾とも言える結論だった。
元々人間が好きで興味もあって、人には優しく、信じられぬと嘆くよりも人を信じて傷つく方がいいと心の底から信じてやまなかった。先の対話でそれはただの思い込みという結論になるのだが、とにかくそんな旗を掲げて人と接してきた。
ただどうにもこうにも金八的なそのフィロソフィーと自身の行動にどんどん乖離が生まれる。いかんせん、私の脳がいろいろ追いつかない。ひたすら数十年自身と対話を続けたところ、もしかしたら私はそもそも人間という個には興味がないのではないかというところに行き着いた。そのとき、私の中の何かがスパークした。
興味がないというよりは執着がないと言った方が近いのかもしれない。とはいえ、本当はどちらにも私の感情はうまく当てはまってはいない、実際とは違うと漠然とだが今でも感じている。しかし形容するものが他に浮かばないので、そうしているといった次第だ。
例えるなら「おつうが鶴だったことを知った老爺の気持ちに一番近い感情を次の選択肢から選びなさい」という国語の定番問題。「あなたのその好きで好きで仕方ないと宣っていたクセに、手の平返しである日消えたりする破滅的な言動を表現するのに一番近い理由を、次の5つの選択肢から選びなさい」で「執着がない」以外は消去法で明らかに違うから、それになったっていう次第だ。
ただ私はおつうでも吉永小百合でもないので、もっとも近い選択肢が「執着がない」だとしても、”去る者は追わず”というキラキラ美女がほぼ必ず持ち合わせる精神は、残念ながら持ち合わせていない。
人前でも平気で「捨てないで」と足にしがみつくことだってできる。恋せよ乙女だ。恋に焦がれ恋になる GLAYの子なのだ。そういうことしたって離れた殿方の気持ちは取り返せないよってことは百も承知だが、もうそこまでしたら『憎んでも忘れないで』なのだ。『少し痩せた私を見て』なのだ。私が美和だ。
時々「ゲイって人間関係が豊富になる代わりに一つ一つが希薄になりがちなのかもね」みたいに訳知り顔で宣う人に出会う。違うよ、違う。そこにセクシャリティは関係なくて、てめぇの性格が悪いだけだからだよ、という言葉を一旦飲み込み、私は彼にLOVE LOVE LOVEを熱唱してあげる。とにかく愛 は叫んでいる。
そんな私が大切にしているひとつめのものは、『自問自答しつづける』こと。開いた箱の中身がそれはとても見たくもない醜い自我だったとしても、自分と対話し結論に辿り着くことを諦めない。誰にも理解されないかもしれないこんな私の性分にも、どこかに当てはまる答えがきっとあると信じている。私が見つけてあげたいと思っている。
だから、こんな私はこんな私を諦めない。諦めたくない。まだ。