ふたつめ「花束を君に」
その日は唐突にやってきた。
後ろ足で自重を支えられないのか、前足だけで歩き、後ろ足を引きずっているようにみえる。触診して見たが痛みはないようだ。もう15歳のおばあちゃんだから、筋肉が弱ってきたのかしらねと話していたら、すぐに階段を上り下りすることができなくなった。
簡単な段差を超えることができなくなった
自力でトイレに行けなくなった
食いしん坊だったのにごはんをほとんど食べなくなった
甘えて伸ばす腕に力がなくなった
1日中目を閉じている事が多くなった
トイレの回数がめっきり少なくなっていった
チャームポイントだったぷっくりお顔とお腹の面影がなくなった。
ベッドが汚れていないか体勢が辛そうじゃないか、2〜3時間おきに確認するのが日課になった。
ある夜、床ずれしないようベッドを移動させた時、普段は抵抗しないくせにその日は移りたくないと爪を立てて抵抗した。あらあらどうしのかしら?と前足を触ったら、私の指をギューッてしてニャンギャーと珍しく鳴いた。子猫の頃からほぼ鳴かない娘だったのに、こんなに大きな声を出して力いっぱい握り返せるだなんてお母さん嬉しいな、と方向違いの呑気感想を抱きながら仮眠を取るため一時的に床に就いた。
それが彼女が温かかった時に交わした最後のスキンシップになった。
その日に綴った私の日記に、こう書いてあった。
『思ったよりも哀しみが溢れてこない
きちんと見送ったからだろう』
とても殊勝なことが書いてあった
彼女をしっかり見送った後、その夜、友人達の会合に出かけた私は、元気そうに言葉を発しているのだが、その言葉が私から発されている事を気付くのに時間差があったのを覚えている。
その日から私は少しずつ壊れていった。
些細なことでキレやすくなった
許したはずのことが再燃し、怒りの感情が抑えられなくなった
お酒を飲むと一段と記憶が欠如するようになった
他人の何気ない言葉が鋭利な刃物になり突き刺さるようになった
珍しくミスしてアカウントが消失したLINEや連絡先を放置した
人を避けるようになった
自身と対話することをやめた
悲しみという感情を差し出すことで自身のバランスを取っていたつもりの私だったが、抑圧されない他の感情でそれを代替したに過ぎなかった。
見かねた鑑定士さんが声を掛けてくれた。
「今の彼女があなたへ伝えたい事を届けてもらいましょうね。」
山札から私が選んだ2枚のカードには『Power』と『Protect』の文字が書いてあった。私は外だということも忘れて、机に突っ伏し大きな声で泣いた。私はその夜、東中野の中心で愛を叫んだのだ。
愛を叫んだら、すこしだけ周りが見えるようになった。
ゲイのパートナーは彼女を失ってから半年弱、彼女の話題が出る度に毎回目頭を熱くし「僕なんかが泣いちゃダメなんだけど、だって004の方が絶対悲しんでいるし、僕なんかが」のリフレインでどちらが最愛を失ったか分からない某ドラマのシャーロットよろしくを素でやってくれた。
敬愛するメンターのMさんは、定期的に私を連れ出して、近所の人の挨拶を無視してしまったかもしれないだのウジウジする私に、「とにかく泣け!ほら泣け!ほらいまだ!泣け!」と焚きつけてくれてケタケタケタと笑ってくれた。自分の方がもっともっともっと大変な今生の別れを経験したであろうっていうのに、ケタケタケタと笑って支え励ましてくれた。
友達の湘南マダム/ヴィヴィアン・ウエストウッド(と私が心で勝手に呼んでいる)は連絡先アカウントの消失について、「あの人随分昔から”SNSアカウント消しても1ヶ月以内なら復活可能”ってロジックが公式になる前からそれを編み出していた人だから年末だし人間関係総決算したかったんじゃない?知らんけど」とバックで華麗にフォローしてくれていた。
「たかが」という接頭語でひどく傷つくこともあったりで、それらのフォローがもしもなかったら、もっと私は私を壊していたかもしれない。
あれから少しずつだが、きちんと”私”を取り戻している。ありがとう。
それに応えるというわけではないが、だからこそ、ふたつめに大切にしているもの。
それは『自分の感情を押し殺さない』こと。
仕事のタスクじゃないのだから、感情は代替なんてできない。時に抑えることは必要だけれど、押さえつけてころしちゃ絶対イケないよ。まして悲しみの回復プロセスの一つがとことん悲しむことなのだから、考えることなく、ただただ涙色の花束を贈ってあげればいいのですっていうこと。
だから、
お寺さんに電話ができるまでは起きて側に居てあげよう悲しむ必要は無い彼女はただ生を全うしただけだ私が悲しんでどうするおまえは親だろ生体反応がないことは確認したのか暖房は切ったか暖めるなよ今日のスケジュールが大幅に変わるから誰にどう連絡するかを今考えろ寝不足だから車の運転は人に任せろよ現金は用意してあるか無ければ朝一コンビニでおろしてこないとダメだぞ泣いたらダメだ悲しんではダメだだって寿命を全うしたのだからなにを悲しむ必要があるのだ精一杯生きたんだよ
と、あの冬の日の深夜に己の感情に耳を傾けず冷静になるように唱え言い聞かせていた私に伝えに行こうと思う
いますぐ思いきり 泣け