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「始皇帝」は、暴君なのか? その思想を調べてみました②【為吏之道】

こちらの記事の続きとなります。

前回に続いて、始皇帝の思想を見ていきたいと思います。

前回は、「始皇七刻石」について、始皇帝の理想について語りましたが、

「「始皇七刻石」はあくまで権力者の顕彰碑に過ぎない。
 臣下が始皇帝におもねって、民衆道徳にあわせて実態とは異なった事業や目的の達成をたたえただけでは?」

という疑問が生まれた方もいらっしゃるかもしれません。

そこで、今回は、
始皇帝が臣下の官吏に与えた「官吏たるものの心構えを説いた」文書である『為吏之道(吏たるの道)』について、解説したいと思います。

なお、こちらの書籍を参考にしています。


『為吏之道(吏たるの道)』とは?

『為吏之道(吏たるの道)』という書物について、はじめてその名を聞いた方も多いと思います。

始皇帝時代の書物であるにも関わらず、中国の古典全集にはありません。

これは、1975年12月に湖北省雲夢県睡虎地に出土した秦時代の墓に存在していた文献の一つです。

これは始皇帝に仕えた官吏の一人の墓から出土したものです。

『為吏之道(吏たるの道)』には、当時の官吏に与えた心構えが書いてあります。おそらくは、役所に原本があって、それを官吏が書き写して心構えとして読み返していたものでしょう。

この内容を見れば、始皇帝が臣下の官吏に命じた法の実態について、かなり迫れるわけです。

果たして、一般的に悪くイメージされる、あるいは始皇帝を悪役とする創作作品でみられるように、始皇帝が、

「民に重税を課し、税を払いきれない民をかたっぱしから切り捨てるか、処刑し、あるいは罪人として死ぬまで強制労働を行わせるように命じているかどうか」

あるいは、

「民を厳格な法律でしばりつけ、一言でも逆らう民は一族皆殺しにし、旧六国の民を見下し、平伏させ、奴隷のようにこきつかっていたか」

も分かるわけです。もちろん、官吏の汚職や怠惰、職権乱用については分かりませんが、始皇帝がすすんで上記のようなことを勧めているかどうかが、実態に大きく影響することは言うまでもないでしょう。

それでは、『為吏之道(吏たるの道)』の主な内容です。

『為吏之道(吏たるの道)』の内容

・無私であること、寛容であること
・自ら反省すること、民衆に率先すること、忠義を根幹として、万事に慎重であること
・富貴にはとらわれず、行いを正して、身を修めること

吏の五善


・信にして上を敬うこと
・清廉であり、他人をそしらないこと
・物事を行う時は、公平であること
・喜んで善行をすること
・うやうやしい態度で、謙虚であること

吏の五失

・おごって、度を越えること
・地位をほこり、えらぶること
・ほしいままに、人のものを奪うこと
・上位のものを侵害して、その害を考えないこと
・人をあなどって、財貨を大事にすること

※なぜか、五失は四通りあるが、似たり寄ったりなので省略

行政にたずさわるものは、上に忠誠で従順、下には温良、事務能力をみがき、欲望に節度を保て

言葉と考えと財物に慎重であれば、官吏としての身分も保証され、経済生活も安定するであろう。

全体的にみて

いかがだったでしょうか?

『為吏之道(吏たるの道)』の最後は、理想的な道徳心に訴えるばかりでなく、安定した経済生活を送りたい官吏の心理をうまくつき、懇切丁寧に説明がなされています。

全体的に、「忠」や「孝」といった全般的な民間道徳(儒教の基本道徳は、もともと中国に広まっていた民間道徳であるといわれています)に訴え、民に寛容であれ、と訴えています

一般的に悪くイメージされる、あるいは始皇帝を悪役とする創作作品でみられるような、始皇帝が官吏に対して、

「民に重税を課し、税を払いきれない民をかたっぱしから切り捨てるか、処刑し、あるいは罪人として死ぬまで強制労働を行わせるように命じている」

あるいは、

「民を厳格な法律でしばりつけ、一言でも逆らう民は一族皆殺しにし、旧六国の民を見下し、平伏させ、奴隷のようにこきつかっていた」

イメージは大きく変わったのではないかと思われます。

また、『為吏之道(吏たるの道)』は老荘思想の『老子』、儒教思想の『礼記』から見える語句を引用しています。

このことは、法家思想が好まれた秦でも全て法によって取り仕切られたわけではなく、教養や道徳として、「道家」や「儒家」が取り入られたことが分かります。

この記事のまとめ

✅『為吏之道(吏たるの道)』は、秦時代の墓から出土した文献の一つ
✅『為吏之道』には、始皇帝が与えた当時の官吏に与えた心構えが書いてありる。
✅始皇帝が与えた当時の官吏に与えた主な心構えは、「清廉であること」、「公平であること」、「上司は敬い、従うこと」、「民にはえらぶらないこと」、「率先して善行して民の模範となること」、「民に寛容であること」
、「物事に慎重であれば、安定した経済生活を送ることができる」
✅法家思想が好まれた秦でも教養や道徳として、「道家」や「儒家」の思想が取り入れられていた。

次回は地方長官が官僚に与えた訓示である【語書】について取り上げます。

このように始皇帝の政治が法による圧制が行われていたと一概に決めることは危険であることが分かったと思います。

次回は、『為吏之道(吏たるの道)』と同じく、湖北省雲夢県睡虎地に出土した秦時代の墓に存在していた文献の一つである『語書』を取り上げます

『語書』は、秦の南郡の郡守という地方長官であった「騰(とう)」という人物が各県の官僚に勧告した文書です。

「騰(とう)」はキングダムにも登場する武将であり、「内史(ないし)」の地位にあった時に、韓を攻め滅ぼしたことで知られる人物です。

これにより、地方の高官がどのような訓示をさらに地方の官僚に与えたかが分かるわけです。

その内容は、次回に説明します。











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