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「シニア右翼」(古谷経衡著 中公新書 ラクレ)を読む。

新書ながら大書・名著なのだ。最近の世間の動向について色々疑問に思っていたことが、この本では分かりやすく、きちんとしたデータをもとに著されている。
「なぜシニア右翼が増殖したのか?」そんな事、日頃、漠然としか感じていなかったけど、悲しいかな、本を読むに連れ僕の絶望感が増してくる。

昨日、隣町の温泉に行き、湯上りがてらテレビを見ていたら「そこまで言って委員会」(読売放送)が放映されていた。テーマは「大阪のIR計画」について。そうそうたるメンバー(苦笑)がひな壇を飾り、言いたいことを言う。ヘイトオールスターズの勢ぞろいだ。親父はオリンピック利権のど真ん中に居る有力者で、本人は過去に「懲りないヘイト発言」で裁判で有罪だった男が叫ぶ。「巷にはパチンコ、公営ギャンブルがあふれているのに、何を今さら、ギャンブル依存症の心配をする必要があるのか!」経営コンサルの中年男子が、「東南アジアでカジノに関わる友人が、日本のIR計画に恐れをなしている(恐れをなしているくらい計画がすごい!)」とのたまう。経営コンサルたる者が、友人の伝聞を大げさにとらえ、カジノ推進論を公共電波であおるとはどういう事なのだろうか。他のメンバーも常連の名誉棄損、敗訴作家だの、いろんなメンバーが大勢いてカジノ誘致について推進論を唱える。この雰囲気じゃ、だれも反対論なんて言えるわけがない。リアル同調圧力。

「そこまでやらかして委員会」は、よくもこれだけ「やらかし問題中年軍団」を集め、放談させるものだと思う。普段はちょっと訴訟沙汰になった者は吊るし上げた挙句、放り出すのに。僕は雨の中温泉館を後にした。風邪を引きそうだ。

ちょうど1週間前に、NHKラジオで大阪のIR計画について意見を述べ合う放送があった。大阪商工会議所の広報担当の女性が「IR計画でカジノに会議場、映画館いろんな施設ができて大きな経済効果がある。大阪を拠点に全国の観光地に人が集まる」と言う。かたや静岡大学の教授がデータを基にその意見を全否定して打ち砕く」という内容だった。実際の現場ではIR計画の経済効果について真剣な議論がなされているのだ。つまり採算の取れない事業は縮小されている」わけなのだな。その理由がもっともで、聞いている僕も大学の教授の意見に納得した。大阪商工会議所の広報の言う事はいかに「お花畑」すぎて、何も現実味がないのだ。

そういう議論の中で「ギャンブル依存症も大歓迎!」「単なる友人の伝聞を大げさに喧伝する」出演者の発言は、普段難しいことを考えたくない、おじさんおばさんにとっては面白可笑しく見えるのだろう。そこまで言って委員会、彼らが「シニア右翼」の育ての親、日曜の昼下がりに、「シニア右翼」の卵をふ化させる役割を果たしてきたのだなと思う。そういう調子で、アベノミクスの検証も、日本の歴史の課題も、軍備の問題も憲法も、すべて面白可笑しく、都合のいいように解釈、放送されて来たのだ。笑いを取る度に、彼らの口座にはお金が振り込まれる。

古谷氏は敗戦後、日本は根底から変わることが出来ないまま70数年も経過し、今に至ると書く。シニア層(50歳代から上)の層は、情報を「ネットデマ」や「ユーチューブ」などからの情報を基に、気が付けは「シニア右翼」に思考が変質したと書く。本も新聞も読まず、その情報の真偽も確認せずに相変わらずヘイト発言を繰り返し、自分と違う意見の人を攻撃するのだろう。

なぜ根底から変わることが出来ないのか…その理由を突き詰めようとすると僕は更に絶望的になる。毎年8月15日に思うのだけど、何故マスコミは「敗戦」を「終戦」に言い換えるのか?我が日本国は差別をなくし、憲法で平等を謳いながら、天皇一族にだけ過剰な敬語を使うのか?疑問に思っていた。憲法を変えるのならまずそこから変えないといけないのだ。
鬼畜米英、国を護る為に特攻隊で命を落とした英霊を祀る靖国神社があるのなら、何故、今も沖縄に米軍の占領基地があるのかという疑問がある。原爆が落とされたのは気候変動ではなく米国が落とし、今も反省、謝罪もしていないのだけど。そんな国に隷従してどうすると思う。

そんなことをブログに書く僕も1959年12月生まれの63歳。立派なシニア層の一人。ちょうど高校の時、靴ひもの色の事で全校集会があって白か黒か、先生と生徒の議論があった。制服の下に着るシャツの柄はどこまで許されるか?靴下のラインはありかなしか?…髪に櫛を入れて自分を着飾るのはよいのか? (驚くことに結論が出なかった!)

当時、毎週日曜8時には中村雅俊さん主演の「俺たちの旅」という青春ドラマがあり、月曜になると番長までが小椋佳の主題歌を口笛吹いていた。主人公は大学を出ても仕事に付かず夢を追い求めていた。周りからのそんな暮らしでは「まともになれない」という冷たい視線を浴びながらも、自分の進みたい道を模索する姿が思春期の僕らにとっては魅力的だった。

「あんな大人になりたくはないよなぁ。俺らも自由になりたいよなぁ」と語り合った。それからわずか20年後、熊本市内のホテルで同窓会があり、ロビーのソファー座って開場を待っていたら、その席の裏で自分の子供の進学について騒ぐおばさん達の話声が響いた。そして開場するやいなや、なつかしい声に混じって自分の出世話、名刺を交換しながら、どちらが偉くなったかの、野郎どもの儀式が始まった。そこには「なりたくなかった、あんな大人になった、不自由な俺たち」が居た。

古谷氏の言う通り、僕らが高校で学んだのは「敗戦後の日本」からであり、奇跡の復活であり、高度成長であり、日本は1番であり、バブルであり…無反省であり、長い物には巻かれろ、であり、そんたくであり…外国人は出て行けであり、やっぱり日本は1番…だった。

若い世代には本当に申し訳ないが、僕ら「学ばないシニア層」はこうして培養、育成されたとんでもない厚い層で、人口比からしても君らにはとうてい勝ち目がない。更に君らの足元を掬う莫大な負債をすでに残している。

古谷氏は最後に、ほんの一筋の希望の光を書き記されている。古谷氏が考えて、考えて、ようやく見つけた一筋の光。

僕の尊敬する、パーソナリティの久米宏さんがラジオ番組で「私は最後の最後までオリンピックの開催に反対します。最後の一人になっても、誰が何と言おうとも、リンピックの開催に反対します」と言い続けられていた。久米さんは東京オリンピックの誘致の段階から反対を言い続けてこられたのだ。悲しいかな、その番組が久米氏の最後の番組になった。

古谷氏の本で、僕らの今を覆う、白い闇の輪郭の姿がぼんやり見えてきたのは確かだと思う。
久米さんの言う「最後の一人になってでも」という言葉を励みに、恰好悪く、自分の残された時間を過ごしていかねばと、僕は思うのだ。

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