ウランテラ様の事。
に諏訪神社があるけど、崎津にも諏訪神社がある。祀られてあるのは建御名方命(たけみなかたのかみ)…天草から遥か遠く、長野県の諏訪神社が総本山、山の神なのだ。羊角湾のほとり、崎津港から崎津教会の前の参道を山手に真っすぐ歩き、苔むした階段を登ると、諏訪神社の社殿がある。海から水神がやってきて諏訪神社の鳥居くぐり、裏山の山頂に向かう。平成の時代、地域興しとやらで、完成時は、諏訪神社の境内から山頂までの階段はピカピカの石でできていて、頂上には十字架をかたどった大きな塔があり円形のイベント舞台があった。その十字架の中に鐘が下げられ、やって来た人は鐘をカンカン鳴らし平和を祈ったのだ。いまはその塔は朽ち果て撤廃。鐘が下がっていた鉄の骨組みだけが残されている。石の階段を登る途中に鳥居があり「金毘羅宮」とある。更に、山頂の奥にも「金毘羅宮」の苔むした石の鳥居がある。金毘羅さん…金刀比羅宮の主たる御祭神は、大物主神(おおものぬしのかみ)。航海の安全や豊漁祈願、五穀豊穣、商売繁昌などに御利益があると信仰を集めてきた海の神。崎津はキリスト教会に諏訪神社、金刀比羅宮。キリスト、山の神、海の神を祀り、守られてきた集落。これぞ神仏習合のお手本のような話。どの神様が先か後かはともかく今もみんな仲良く過ごされて居る。
更に驚くことに、その宗教グループに「修験道の神」も参加されていた。資料館「みなと屋」に展示されている「ウランテラ様」のいわれを読むと、石仏「ウランテラ様」の背中に天使の翼がついているけど、その羽は修験道のシンボル「天狗の翼」の影響でもあるらしい。「ウランテラ様」が発見されたのは崎津集落から山手の奥に入った「今富(いまどみ)」と言う集落。今富には山伏さん ( 修験道 )が居た。「ウランテラ様」の主な説明では手に武器を持ち、天使が悪魔を踏んづける西洋の絵画がベースになっているという説明があるが、山伏、修験道のシンボル「天狗」の姿を形作ったという説も捨てきれないと書かれてある。明治時代の崎津教会の神父の日記に山伏トクジさんの事が記載されているそうだ。トクジさんは当時の潜伏キリシタンのリーダーなのだ。今富はその時代、「ウラ」崎津とも呼ばれていたそうで、「裏の寺様」ではなく、ウラ崎津…今富の神様の符号・呼称なのかもしれない。当日は頑張って今富の「ウランテマ様」が発見された墓地を探したが、道に迷い断念。
明治維新となり幕府が倒されても中々切支丹禁制は解かれなかったが、欧米の外交団の圧力で明治6年(1873年)ようやく切支丹の信仰は黙認、これまで天草で潜伏キリシタンだった人々は、カトリックの信者になり、崎津教会、隣に大江教会が建設された。今富にも教会が作られたが、今富の人々はカトリックになるのを拒否し、昭和になるまで潜伏キリシタンの教えを守り続けたそうだ。※法的に信教の自由が認められたのは明治22年(1889年)。
1618年禁教令が幕府から公布。島原の乱の4年前(1633年)から、当時の日本には司教が存在しない。つまりローマ法王の代理人、司教が居ないというのは正式なキリスト教の信者は存在しないとされて来たそうだ。島原の乱(1637年)が起った当時は神父さん1人も居なかった。ローマから見れば、天草島原のキリスト教の信者は極私的な信仰集団。4万人近い犠牲者は、ローマに知らされもせず今も殉教者として認められていない。※それ以前、弾圧された神父、信者は殉教者として認められている。
2023年の今、日本で独自の神を信仰してきた潜伏キリシタンの信者の数は約40人と言われている。「神仏習合」なんて適当な言葉で民の信仰を丸め込んでしまうのは簡単なのだけど禁教令から400年以上経っても信仰が続く、筋金入りの神仏習合が潜伏キリシタンの信仰なのだ。
「オラショの教え」は孤立無援の宗教なのだ。天草島原の乱は「魔界転生」というSF映画にはなっても、NHKの大河ドラマにはならない。みんなお殿様の立身出世と恋物語のストーリーが大好きだから。僕はいかにも嘘くさい宮本武蔵の伝説が大嫌い。(沼田家記を見よ) 宮本武蔵は島原の乱で幕府側に参戦し、信者から石を落とされ足にケガをして原城の石垣から転げ落ち、さっさと退散した。五輪の書よりも籠城した信者の矢文を読め。
潜伏キリシタンの事を正面から取り上げてくれた映画はマーチン・スコセッシの名作「沈黙」(2016年)しか見当たらない。映画・沈黙のベースになったのはもちろん、遠藤周作氏の小説「沈黙」…ただ「沈黙」が発表された当時は日本のキリスト教会の中、信者からその内容に激しい批判もあったそうで…この人たちは字が読めないのか理解できないのか…何にしても何かを信じて頭が凝り固まれば、他者に寛容になるどころか、攻撃的になるのは今も変わらじ…信仰脳は激しく退化する。
僕は無宗教で、宗教からみで造られた壮大な社殿、仏像などを見るとつい小馬鹿にしたくなる。ガラスケースに飾られた純金の国宝級の像は単なる仏教美術であり、信仰のシンボルにしかすぎない。当時の人は本当にその金色の像を拝むことができたのだろうか。崎津の教会は信者の人の身の丈と同じ、それでいいではないかと思う。
道端にたたずむ、刻まれた文字も消えかかる石の観音様の像のなんと孤独で自由なことよ。石に刻まれた、すでに消えかかった文字を指でなぞりたい。ひねくれもんの僕は、そんな観音様に救われたいと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?