生きづらさと共に(恥と信念)
彼岸花が美しく咲き誇る数週間に思い出すのは、家に来てくれてたミニチュアダックスフンド、名前は勘 年老いて眠る傍に小さな窓があって、その窓が普段とは違う赤い色に染まる、外には彼岸花が一面咲き誇っていた。うつろうつろしながら勘とお昼寝できる時間の、あの一瞬の思い出の花なのです
彼岸花が咲き誇っている頃の、私の印象的は夢のお話でした。
人にとって生きづらさは永遠のテーマじゃないかと勝手に思っているわけです。全く生きづらさを感じたことなど無いっていう方も、いるかもしれないけど、何かの生きづらさを感じたことは、あるのではないかな?と思っているのです。
そう言う私は、前回に書いた内容が全く自分のことなので、思いっきり生きづらさに不安になり、おろおろしたり、眠れなくなったりするのでした。
どうして「生きづらさ」って感じちゃうんだろう…
自分の中にいる子供(チャイルド)って相当、自由気ままで我儘で奔放で縛りが無くて手に負えない、交流分析(TA)のチャイルドとはちょっと感覚が・・・違うのかな?
大人になりたくない我儘さや自由さが良いとは思うのだけど、その通り感じたままに生活できるはずもなく、困ったちゃんも顔を覗かせたりする。
何をもって自由とか、我儘だとかの線引きも人それぞれだろうとは思うけど、私の中では自分を苦しませない程度に自由ならば我がままならばそれで良しとしているところはある。
人の目や世間体をあまり気にしないところがあって、逆に家族はそれが不思議だと言わんばかり、恥ずかしいと思うことは勿論あるけど、同じ家で育った子供たちは、全く違う感性を持っているんじゃないかと思う。恥ずかしいの捉え方が違うってところね
パット・オグデン先生の「すべてのクライエントに恥がある」っていう言葉を教えてもらった時、すごく腑に落ちた。よーわかりますやん。って思ったのだ。というか、私の捉え方としては、どんな人でも恥は持ってますやん。って捉えた。わーかーるーって思ったのだ(笑)
信念とか概念とかが人の中で育つのならば、恥もそれと一緒に育ってくるんじゃないかと思えるのです。
人種的なものも勿論そこには影響するし、価値観も影響するだろうし、何か大きな衝撃的な出来事も勿論だろうと思う。
恥に対して、まあ、恥の強さというか、強烈さによっても、どのように自分を守ってきたんだろうってことも、自分らしく自己防衛しているわけなんだろうなぁ
そのサバイバル力があるからこそ生きていられるんだろうなぁと、常々思ったり感じたりするわけけ、もっと大きく捉えると、生命力ってすごいよねってことになっちゃうわけ
本当に人間って尊い