第3節 ひとり暮らしにただいま
都内某所。
「ただいまー」
二十代後半くらいの髪の長い女性が、一人暮らしの自宅に帰ってきた。
「おかえり、マスター」
「……ああーん、最っ高! 家に帰ったら愛しのジェロニモが待っててくれてるなんて、それだけでもう仕事の疲れも吹っ飛んじゃうよ! でも、ジェロニモ。できればやっぱり、マスターはやめて欲しいかな……」
ブラウンに近い落ち着いたピンクベージュの髪を揺すって身悶えし、マスクの下からうきうきした顔を見せたかと思えば、少し困った顔へと忙しく表情を変える彼女に、出迎えたネイティブ・アメリカンな顔立ちの男性――ジェロニモは渋い顔を見せる。
「何度も言うが、その、真衣? 私には愛する妻と子供が」
「知ってるよ。わかってるって。私も何度も言うけど、別に恋人になって欲しいとかそんなつもりはないよ。そりゃあやっぱりジェロニモさえ――」
唐突に早口になりだした彼女の、平川真衣の口を塞ぐように、ジェロニモは口を開く。
「真衣? 手を洗わなくていいのかい? 危険な疫病が流行っているんだろう?」
「あっ、そうだった。ありがとう、ジェロニモ。ついでにシャワー浴びてきちゃうね! 着替え着替えっと……」
「ああ、真衣……。洗う前の手で着替えに触ったら汚れてしまうのでは……?」
「そっか。もー、ジェロニモがかっこよすぎて私もう頭がヤバいよぉ。まあ、元々馬鹿だけどねー。あはは。じゃあ、まずは手を洗ってー……」
ドタドタと洗面所に向かって行く真衣を見送りながら、ジェロニモは小さなため息をついた。
そして、自分の衣服に目を向ける。夏草のような色に染め上げられたそれは、生前には縁もゆかりもなかった衣服。日本の伝統的衣装、浴衣だった。
聖杯戦争に呼ばれたはずの彼だったが、召喚されたのは魔術師の工房どころか魔方陣の上ですらない、一人暮らしの女性でも安心のオートロック付きマンションの一室。1Kのその部屋に彼を呼んだのもまた、魔術師や魔術使いではなく、単なる一般人のOL だった。
――そりゃあ、Fateは元々男性向けのエロゲだったのは知ってるし、もうそういうもんだとは思ってるけどさぁ。推しの水着が絶望的だなんて、やっぱ寂しいでしょ? しかも、霊衣すら望み薄……。今回の夏イベはまさかのジェロニモが! と思ったら最初だけだったし……――。
などという彼女の言葉の意味を理解して、ジェロニモは愕然とした。
呼ばれたのは戦いの場であると思っていたというのに、復讐心で燃える戦意を胸に、多少の霊基の変化には目もくれず、不慣れな衣装にも甘んじて身を包み召喚に応じてみれば、求められていたのは戦士としての自分ではなかったのだ。
――水着ジェロニモ、ってか浴衣ジェロニモだけど……。夏イベ版ジェロニモが見れただけでもう私の願いはかなったようなもんだし。あっ、でも再臨したら水着になるのかな? 実はその下は水着……! えっ、リアル再臨ってどうやるの! あ~ん、もう推しがゲームから出て来てくれたなんてもうヤバいマジヤバい! ジェロニモが今ここに! しかも、浴衣! すごい似合ってるよ、ジェロニモ! もう、尊すぎて私死んじゃうよ~。ジェロニモ尊死! ……だから後は、出来るだけ私と一緒にいてくれたらそれでいいんだ。戦士のジェロニモには物足りないかもしれないけど、お願い。出来るだけ聖杯戦争には参加しないで、出来るだけ長く私と一緒にいて?――。
などとマスターに頼まれてしまっては、どうすることも出来なかった。
否。今のジェロニモはスキルによって、微量ながら魔力は延々と湧き続けるため、その気になればマスターからの魔力供給に頼らずともある程度は活動できるのだが……。
「ジェロニモー! お待たせー! ビール飲もう? おつまみ買ってきたよー。えっとねぇ――」
こんな具合で無邪気に自分との時間を楽しまれては、何故だか気が抜けて、牙まで抜かれたような気持ちになってしまうのだった。
――……もちろん、ジェロニモがその気なら、別に私は夏の魔物と人知れず二人きりで夜の聖杯戦争をするっていうのもまんざらじゃないんだけど……。なんてぇ……。あはは。何言ってんだろー私。酔ってるのかなぁ? 酔ってるよ? だってこんな飲んじゃったし! あー、待って! 待ってジェロニモ! そんな顔しないで! 私、ビッチじゃないからね! むしろっ! ……うっ、ううん。なんでもない。なんでもないからね、ジェロニモ――。
などと言われた日には、もはや怒りを通り越してあきれてしまうのである。
『Fate/Grand Order』とは違い、今回はキャスタークラスでの現界ではないジェロニモは、戦士としての側面が強い現界を果たしていた。もちろん霊基がいささか特殊であるため、衣装だけではなくスキルも“夏の魔物”だとか“縁日の略奪者”だとかイベントチックになってはいたが、その実その心は憎悪と戦意に燃えていた。
戦う意思のないマスターに対して憤りもあった。だが、それでも何故だかジェロニモは、戦いへの参加を強行する気にはなれなかった。
「ジェロニモ?」
「……いや、すまない。そうだな。私も一杯いただくとしようか」
そう言って、戦士は力なく座についた。
*
恐らく初めて自宅のドアをノックした直輝は、いつものように鍵を開けて家に入る。
「おかえりなさい、木村さん」
「ただいまです。大丈夫でしたか?」
アルバイトから帰ってきた直輝は、靴を揃えマスクを外しながら、玄関まで出迎えてくれたマシュに笑顔で問いかける。
「はい。木村さんも、何事もありませんでしたか?」
「大丈夫です。」
「――あっ。今、照明をつけますね。えっと、すいません。どちらがキッチンのスイッチでしょうか?」
「ああ、大丈夫ですよ。すぐ終わりますから。」
直輝は薄暗いキッチンで丁寧に手を洗いながらそう返すと、マシュに進捗を尋ねた。
昨夜シャワーを浴びた二人は早々に眠ることにし、マシュは今朝から『Fate/Grand Order』の設定やシナリオ全体のあらすじをネットで読み漁っていたのである。
直輝はといえば、社会情勢の煽りと学生スタッフたちの夏休みの影響を受けて勤務時間は大幅に減っていたものの、夕方から夜にかけてのシフトがあったので、マシュを自宅に残して働きに行っていた。
そんな直輝に、マシュは大まかにではあるもののシナリオや設定、そしてマシュ・キリエライトの設定に関してはかなり詳細に把握できたと思うと伝えた。
「物語としては面白そうだと思いましたが、自分が体験したことの記録なのだと思うと――あっ。エアコンの温度は大丈夫でしょうか? わたしはずっと部屋にいたのでちょうどよいのですが」
荷物を片付けて部屋に入った直輝は、マシュの気遣いに微笑んで答える。
「ああ、大丈夫です。俺、普段は冷房使ってないので。」
「それは失礼しました。木村さんが寒ければオフにしますが」
「ああ、そうじゃなくて。節約のために使ってないんです。もともと暑さにも寒さにも人より強いですし。だから、気にしないで下さい。マシュさんが快適な温度に設定して貰えればありがたいです。」
「……」
直輝の言葉に、マシュは急に黙り込んでしまった。
「どうしました?」
「……やはり、これ以上わたしがここでお世話になるべきではないのではないでしょうか。失礼ですが、一般的なフリーター の方の一人暮らしというのは、あまり経済的に余裕がないものだと思います。それに、『Fate/Grand Order』についてだけではなくて、今の社会情勢についても少し調べたんです。世界的に流行しているCOVID-19の経済への影響は、この日本でも大きなものなんですよね。そんな状況でわたしがお世話になっていては、木村さんの生活を圧迫してしまうのではないでしょうか。
わたしはデミ・サーヴァントとはいえ、仮にもサーヴァントです。その気になれば野宿だってできます。ですから……」
言い淀むマシュに、直輝が笑顔で答える。
「マシュさん。昨日も言った通り、これは俺の我儘です。マシュさんを見捨てるのが嫌だから、俺の勝手でやらせて貰ってるんです。もちろん、マシュさんが嫌なら、無理には引き止めません。でも、遠慮してそう言ってるのなら、俺の我儘をきいてくれませんか。身勝手なお願いで、申し訳ないんですが……。」
「……木村さん」
「とは言え、全く困ることがないと言えば嘘になりますが……。」
「っ……」
「流石に、魅力的な女性と二人きりで暮らすというのは、緊張してしまいます……。」
「えっ……?」
「あっ、いやっ! ごめんなさいっ! いやっ、変な意味じゃなくて! 冗談と言うか。いや、冗談でもないですけど。そうじゃなくてあの、近寄らないから安心して下さい! あっ、そこに防犯ブザーがあるんで。よかったら、持ってて下さい。」
「……いえ。わたしはサーヴァントですし、その必要はないかと。それに、木村さんは一般的な成人男性に比べてかなり筋力のない方だと思いますし、百人で束になって襲って来られても全く負ける気がしません」
マシュの冷静で心なしか辛辣なツッコミに、目を丸くした直輝はすぐに口元をゆるめた。
「ふっ。それは、その通りですね。」
「はい。……その、なんといいますか、ありがとうございます」
「……、いえ。」
優しくそう言った直輝の瞳から視線をそらし、マシュは口を開いて沈黙を破った。
「……あっ、そうだ。気になるニュースがあったんです」
「気になるニュース、ですか。」
「はい」
「もしかして、新宿のニュースですか?」
「はい。木村さんも見ていらっしゃったのですね」
新宿のニュース――。
今日のニュースによれば、二日前から新宿では、原因不明の体調不良者と行方不明者が続出しているというのだ。
「ネット上では、前者は単なる熱中症ではないかという意見から、COVID-19が変異した可能性や新たな感染症の可能性、果てには政府がCOVID-19の感染者数増加を隠ぺいするために原因不明の体調不良であると不正に情報を操作したり、感染者を拉致しているのだというとても信じられないような憶測まで飛び交っています。ですが、これは……」
「そうですね。サーヴァントなり魔術なりが関係してる可能性が高そうですね……。」
魔術など本来実在しないとされているこの世界で、常識的に考えれば、飛躍した陰謀論よりもさらにあり得なさそうな『魔術が原因である』という可能性の方が現実問題として高いという現状に、直輝は改めて世の中に信じられるものなど一つもないということを実感した。
「はい。それで、調べてみたのですが……。SNSなどの目撃情報を集めてみると、どれも国道二十号沿線の人気のない場所でのものでした。とはいえ、場所をある程度特定できる情報は少なかったので、はっきりとしたことは言えませんが……」
そう言いながらマシュはノートパソコンを開き、地図の画像を選んで表示した。地図上には数個の印が打たれており、それはマシュの言う通り、どれも国道二十号 からそう遠くない場所にあった。
「すごいですね。こんなものまで……。ありがとうございます。」
「いえ……。お恥ずかしいできですし、サンプル数も少ないので、わざわざ図にする必要はなかったかもしれません……」
「そんなことないですよ。充分わかりやすいです。」
「ありがとうございます……。それと、時間帯は夜が多かったです。と言っても、深夜に救急車のサイレンを聞いたというような情報が多いので、静かな時間帯であることを考慮すれば情報が集中するのは当たり前かもしれませんが……」
「そうですね。どうしてもしっかりした情報が得られないので、仮定の域を出ませんが……。それでも、充分大きな手掛かりだと思います。どうしましょう? これから行きますか?」
「木村さんは、大丈夫なのでしょうか。働いて来られたばかりですし……」
「俺は大丈夫です。最近、シフトはだいぶ短いので。明日も夕方からですし。それより、今日一日調べ物をして、マシュさんこそ疲れてるでしょうから。戦闘になる可能性もありますし、マシュさんの調子次第で決めましょう。」
「……ありがとうございます。わたしは大丈夫です。マスターの……、先輩? のことも気がかりですし……」
そう言ってマシュは、視線を落とした。
今現在、マシュは誰かと魔力的なパスが繋がっている。それは、何らかの魔術的な補強によってギリギリ保たれている程度のものだったが、パスが繋がっているということはどこかにマシュのマスターがいるということになる。
マシュがこの世界にレイシフトしてきたのだと仮定すれば、その相手は『Fate/Grand Order』の主人公だと考えるのがまず妥当だろう。それ故に、その安否と所在の確認、そして合流が目下の課題であり目的であるという結論に、直輝とマシュは至ったのである。
だから、直輝とマシュは仮契約の関係にすらなかった。直輝の手の甲には、青白い血管と細長い骨が浮き出ているのみで、白く綺麗なままだった。
「そうですね。早い方がいいですね。それじゃあ、行くということで、大丈夫ですか?」
「はい。」
「そしたら、終電までまだだいぶ余裕がありますし、夕飯を食べて、少しゆっくりしてから行きましょうか。お腹、空いてますか?」
「……はい。実は、とても空いています」
昨日は何も食べておらず、今日もブランチに直輝が奮発して用意したそうめんを食べただけだったので、既にマシュはとてもお腹が空いていた。
「じゃあ、食べましょう。販売期限を過ぎたお弁当とかしかないですけど、多めに持って来たんで。よかったら、選んで下さい。」
そう言って冷蔵庫に向かう直輝を、マシュはすぐ後ろで追いかけた。