美術品とVtuberとキャバクラ
こんにちは。今回は趣向を変えて少し難しめに哲学的な話です。
先日美術館に行こうとした際に、友人Aを誘いました。「ググれば見れるものをお金払ってまで見に行く必要あるの?」と。吝しょくによるものじゃなく、単に合理主義に染まったようでした。
教養の深い人なら卒倒するかもしれません。正確に言えば、ネットに未公開の絵画などもあるので、実際にググって見られる保証はないのですが、この発言はあながち間違いでもないと私は思いました。
美術品の価値は千差万別
Vtuberやソシャゲなど、無料でも抜群に楽しめる娯楽が氾濫する社会の中で、博物館やら美術館に行こうとすると――クラシックやオペラなんかもそうですね――何かと一目置かれがちです。むしろそういうイメージを身にまとうために通っている方もいますね。実際、私も初めて美術館に行ったときは妙な優等な自意識を覚えました。俗に言う「品格」というやつです。ブランド品で身を包むよりかは安く済みます。
しかし事実だけを述べれば、美術館というのは解説が添えられた絵画や陶磁器が並べられているのみです。もちろん、そこに並ぶのは何かしらの価値を持つ名画や骨董品ですが、何も万人が感動を覚えたり興味をそそられたりするような代物ではありません。興味のない展示であれば、特に何も感じずに終わることだってありえます。こういうリスクを考えれば、友人Aの言っていたことも一理あります。
そうした展示物の価値は結局来訪者の内心で決定すると言ってもいいでしょう。もちろんプロの鑑定士による絶対的な価値とは別の、個人的な価値です。
例えば最寄りの美術館に本物のモナリザが展示されていて、千円で見られるとしたら、どれだけの人が駆けつけるでしょうか。その数はわかりませんが、少なくともそこに訪れた人は、自身の中でモナリザを見ることに千円以上の価値を見出したということです。ところが、これが一万円や十万円になってくると訪れる人は減っていくでしょう。誰しもがどこかしらにボーダーラインを設けているのです。
「千円で見れるなら見たいけど、一万円なら見に行かない」「十万円以上払っても見てみたい」そういう線引の違いはすなわち、価値観の違いです。
美術館では奇抜なアトラクションも餌やり体験もありませんから、自分で価値を見出すのです。「各個人が展示物に歴史的、精神的、あるいはその他の価値を見出すことで、入場料以上の経験が得られる施設」美術館における私の持論です。
Vtuberの話に移りましょう。
美術館が入場料という有償の前提があるのに対して、Vtuberは基本的に無償の娯楽です。一銭も払わずに際限なく楽しむこともできます。あいにく私には貢ぐという感覚がいまいちなので、気前よく散財する人の推察は避けます。しかし自分にとって心から無駄だと自覚しているものにお金を費やすという非合理的な行動を取るとは考えにくいので、おそらく彼らも何らかの価値を、投げ銭の対象に内心見出しているのでしょう。
Vtuberはキャバクラなのか
「Vtuberはキャバクラ」としばしば揶揄されることがあります。そんな言葉が発せられるのは、当然ながらVtuberだけでなくキャバクラも無価値と見なす人々ばかりです。さもなければ、その揶揄がまったく成立しなくなってしまいます。率直に言えば、私もキャバクラの魅力はわかりませんが、訪れる人々はそこに価値を見出しているに違いないのです。例えば、美術に一切の興味と価値を感じない人は「Vtuberは美術館」と揶揄したかもしれません。
結局これも価値観の違いです。
身の丈に合わない浪費についての言及は控えますが、Vtuberやキャバクラにお金を差し出すこと自体は無条件に尊重されるべきなのです。
まとめ
「Vtuberは無価値だ」とか「Vtuberはキャバクラ」という意見は個人的なものとして認められるべきですが、「Vtuberに貢ぐやつはバカだ」とか「もっとマトモなことに費やせ」とかそういった発言は慎んで然るべきでしょう。
Vtuber全般に対して否定的なイメージを持つことは何も問題ありません。
ただ、他人の価値観を真っ向から否定するような攻撃的な無理解は、やがて偏見の温床となります。偏見がどれほど唾棄すべき行為であるかは言うまでもありません。
美術館もVtuberもキャバクラも、一見して異なる概念に存在していますが、実際は「心的な魅力を人が見出す娯楽」という内包を秘めています。そして、必然的に誰かの価値観が関与する以上、それを否定してもいい権利は誰にもありません。
ぜひ忌憚のないご意見を聞かせていただけるとありがたいです。以上です。
あとがき
友人Aとは別で、意中の女性をその美術館に誘ったところ断られました。結局友人Bを誘って展示を楽しみました。今度は水族館に行く予定です。