【小説】ディア サーチエンジン 2 亘のプロポーズ

夏実はベッドにもぐりこみ、枕の上にクッションを積み上げて体を持たせて本を読んでいた。そろそろ寝ようかと考えていると、居間に取り付けられたインターフォンがピンポーンとなった。夏実は、隣の部屋で寝ている母親の彬子が気づくかもしれないと待ってみたが、すでに熟睡しているのか、起きる気配はなかった。その間も、インターフォンはしつこくなっていた。

ドアを開けて廊下に出ると、居間に近い分だけインターフォンの音が大きくなった。居間の壁のインターフォンまでよろけながら走って受話器を取ると、「おれおれ、亘。開けて」という、酔って濁った声がした。

また廊下を走って玄関まで行き、ドアの狭い覗き穴から見ると、確かに亘だ。「どうしたの、こんな時間に。もう夜中じゃない」と言って、操り人形みたいにくねくねしてつかみどころのない亘の腕を無理やり引っ張り、中に引きずり込んだ。昼間のデザイナーズブランドのスーツは埃まみれで、髪はくしゃくしゃ、口のあたりからアルコールの臭いがぷんぷんした。

「ごめんね、酔っぱらっちゃって、池袋から歩いてきたからくたくたなのよ」と玄関の三和土に座り込んでしまった。「あんた、自分の家に帰るという選択肢はなかったの? 池袋からだったら、ここより近いじゃない」「その前にさ、夏実ちゃんに話があったんだ」

ピンクの花模様のパジャマ姿の彬子が眠そうに手であくびを抑えながら出てきた。花柄のパジャマは彬子が夏実に買ってきたけれど、夏実が全然着ないので、自分で着ているのだ。「何騒いでいるのよ。こんな夜中に近所迷惑じゃない」

彬子と二人で居間まで引きずってソファーの上に寝かせると、話があると言ったのに、亘はそのまま眠ってしまった。「しようがないわね。このままにしときましょう」と彬子が言うので、夏実もまた自分の部屋に戻って寝た。

朝起きると、居間に続くキッチンで亘がコーヒーを沸かしていた。シャワーを浴びたらしく、さっぱりした顔で夏実の父親のパジャマを着て立っていた。「おじさんのを借りたよ。今朝食を作るからちょっと待ってて」

「ふうん、あんた、よくたあちゃんのパジャマのありかがわかったわね」「そりゃさ、何回も来ているもの、ねえちゃんと。そりゃそうとさ、前から聞こうと思っていたんだけど、たあちゃん、というのは父ちゃんという意味なの? 父ちゃんなんて、ずいぶん古典的な表現だね」「違うわよ。お父さんの名前が貴彦だから、縮めてたあちゃんなの。お母さんがそう呼んでいるから、私もそうしているだけ」

彬子も起きてきたので、三人で亘の作ったオムレツとトーストを食べた。「もう少し早く来てインターフォンを静かにならすんだったら、また来てもいいわよ」と彬子は笑った。「それはいい考えだねえ。実は俺の話もそれに近いな。夏実ちゃん、俺と結婚しない?」亘は上機嫌でそう言った。

夏実は、飲みかけのコーヒーを吹き出しそうになった。

「俺だったらさ、姉ちゃんから夏実ちゃんのことはしょっちゅう聞いていたし、性格やなんかよくわかっていると思うんだ。なんせ、夫婦はお互いをよく知っていることが大事でしょ、おばさん」

彬子は顔を突き出し、亘の目をしっかりととらえ、「亘ちゃん、私にはその質問に答える資格があるとは思えないわ。なにしろ、ターちゃんを理解するのに何十年もかかったんですもの」と答えた。「お母さんはね、ついに先月ターちゃんと正式に結婚したのよ。これで晴れてうちも母子家庭じゃなくなったの」と、夏実は話題をそらそうとした。

「おじさんも気が長いねえ。おばさんが結婚を決心するまで何十年も待ったわけだ。すげえ。まあ、おじさんは芸術家だし、芸術家って変わり者が多いからね」と、亘は目をぐりぐりさせて見せた。

「だからさ、俺が言いたいのは俺はとっくに夏実ちゃんを理解しているわけ。誰よりもね。夏実ちゃんだって俺のことはよく知っているでしょ。何しろ俺が生まれた時から知っているんだし、お互いを理解しているという意味では、いつでも結婚できるわけ。夏実ちゃんは、仮に子供が生まれても、最初から母子家庭じゃなくてすむのよ」亘は会話の筋をそらすつもりはないようだった。ペンギンの模様の入った白っぽいパジャマの袖から長い腕を出してコーヒーを持ち、きらきらした若い瞳を縁取るまつげを心持ち伏せ、モデルっぽいポーズをとった。窓から差す朝日に逆光になった姿は、ファッション雑誌のグラビアの一ページのようだ。

「あんた、まだ子供じゃない。職も見つかっていない学生で、バイトだけでどうやって暮らすのよ」夏実はわざとらしくコーヒーをがぶりと飲んだ。

「いますぐ結婚しようというんじゃないよ。まあ、俺があと二、三年して稼げるようになってからさ。それまでは、そうだなあ」亘は面白そうに部屋の中を見渡した。「おばさんはどうせ、麻布のおじさんのアトリエに引っ越すんだろう。何しろ、晴れて夫婦になったんだから。そうなると、夏実ちゃんはここに一人で住むことになるね。不用心だから、婚約者の俺が一緒に住んでやるよ。俺のバイトの稼ぎだって、そこいらのサラリーマンよりはいいんだぜ」「んもう」夏実は腹を立ててトーストを食いちぎった。亘の乱暴な理屈は、乱暴なりに夏実に切り込むすきを与えなかった。

「亘ちゃん、夏実がいくつか知っているの? もちろんよね、紀美子ちゃんと同い歳だから、今年で三十一。あなたと十歳離れているの」彬子は笑いながら、冷静な声で言った。

「それそれ。人間は歳で判断しちゃいけないよ、おばさん。中身だよ。俺も夏実ちゃんも姉ちゃんを通じて強いきずながあるんだ。歳の差なんかじゃ崩せないきずながね」亘は彬子のほうに細い体を乗り出し、テーブルに肘をつき、にっこり笑った。

亘は、これから麻布に行くという彬子に、「俺も一緒に行って、おじさんに話する」と、父親の貴彦が来たときに使っている部屋でさっさと黒いスーツに着替えてきた。ハンドバッグだけの身軽な彬子に、「あれ、荷物それだけ? もう向こうに引っ越したの?」と、期待にあふれた顔で聞いた。

「おあいにくさま。まだ当分別居なの」彬子も亘の妄想で出来上がった状況を楽しんでいるようだった。


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