【小説】ディア サーチエンジン 1 境内の空にサキソフォンの一音
靴の下で小石がじゃりじゃりなった。尖った石の角を靴の裏越しに感じた。石の角は鋭く、靴を通り抜けて足の裏に突き刺さるようだった。かかとも靴擦れして、一足歩くごとにひりひり痛かった。昨日、靴と一緒に池袋のデパートで買った喪服のワンピースも、襟首の生地が首をチクチク刺していた。同じ年ごろの店員は結婚指輪の光る手で愛想よくワンピースをたたみながら、「薄手のウールですから、もうこの季節から着られますよ」と言った。でも、その日は晴れて気温は高く、体中汗ばんで気持ち悪かった。灰色の目立たないスーツで十分だと思っていたのに、母親は、「紀美子ちゃんのお葬式でしょう。ちゃんとしたものを着ていきなさい」と怒った。それで、デパートに買いに行ったのだ。
立ち止まってあたりを見回した。寺の境内には人気がなく、一面灰色の砂利の庭の上に広がる空は青く高く、一筋の雲が流れ、サキソフォンの一音が聞こえてきそうだった。
さっきまでいた寺の広間には、笑って手を振っている、ピントの合っていない紀美子の写真が飾られ、ろうそくがともされていたが、もちろん遺体はなかった。とっくに火葬されているのだ。一時間ほど僧侶の読経を聞いて、そのあとつるつる滑る廊下を行き、一回り小さい部屋でマスクを外して冷たくなった仕出し弁当を食べた。野菜の天ぷららしきものは恐ろしくまずかったが、一席ごとにアクリル板で仕切られているので、両隣の人と話をせずにすんだ。ほっとしていると、紀美子の母親が、順繰りに席を回り、挨拶を始めた。夏実の前に来た時、ハンカチでマスクを着けた口元を押さえ、「夏実ちゃん、よく来てくれたわね。こんなご時世だから、お葬式に来てくれる人の数を制限されちゃって、本当は夏実ちゃんのお母さんにも来てほしかったんだけれど」と涙声で話した。それでも、その部屋には三十人ほどの人がいて、黙々と仕出し弁当を食べていた。紀美子の母親は、何人の人が娘の葬式に来れば満足したのだろうか。
紀美子の母親は、夏実の隣席の、髪が薄くなり、頭頂部がてかり出した男の前に、座ったまま移動した。喪服のスカートの裾が少しよれて、黒いストッキングに覆われたふくらはぎが覗いていた。「紀美子がお世話になりまして」と挨拶したので、その男はたぶん紀美子の職場の上司だったのだろう。
砂利の庭をそろそろ歩いていると、「夏実ちゃん」と背後で誰かが叫んだ。振り返ると、紀美子の母親が寺の玄関から走ってくる。走りながら、「本当によく来てくれて」としゃべり始め、夏実に追いつくと、「まあ、二年半もたってようやく葬式ができて」と夏実の手を握り締めた。「まだ若かったのにコロナにかかって死ぬなんて、思いもしなかった。病室にも入れなくて、一人で死なせてしまって、ようやく葬式だけは出せたけど」と、言葉を詰まらせて、白いマスクをハンカチで押さえた。
夏実は、自分もここで泣くべきだとは感じたが、涙が出なかった。何か言葉を返さないと、と思ったが、どんな言葉も出てこなかった。それでも、紀美子の母親は夏実の両手に顔をうずめるようにして、マスクと涙に邪魔されて意味不明になった言葉を繰り返した。
紀美子の母親は、普段から話好きだった。紀美子に会いに行くと、母親から、家族経営のドラッグストアがうまくいっていること、紀美子が区役所の採用試験に合格して鼻が高いこと、弟の亘が学校で喧嘩したことなど、家族の情報をひとしきり聞かされるのだが、「母さん、もういい加減にして。夏実が困っているじゃない」と、いつも紀美子が止めてくれた。
「母さん、おじさんたちが挨拶したいって待っているよ」
いつの間に来たのか、紀美子の弟の亘がマスクを外して母親の後ろに立っていた。背が高いので、母親を見下ろしている。
「ああ、そう。待たしちゃ悪いわね。じゃあ、夏実ちゃん、また遊びに来てね、紀美子がいなくても」母親は涙をハンカチで拭くとすたすた歩いていった。夏実の手のひらには紀美子の母親の涙が残った。それをワンピースのスカートで拭った。
亘はデザイナーズブランドの細身の黒いスーツを着ていた。「恰好いいでしょう。姉ちゃんの葬式だと言ったら、デザイナーのおっさんがくれたんだ。香典の代わりだって」「まだ雑誌のモデルのバイトをしてるの?」「うん、本当は浅草で人力車の車夫のバイトをしたかったんだけど、旅行客がいないから、来ても仕事はない、と言われちゃった」「就活は? 来年の三月には卒業でしょう。どこか決まったの?」「それがさあ、自分が何をやりたいのかわかんなくてさ、もう少し大学に残ることにした」
亘はけらけらと陽気に笑った。亘を見上げて話していた夏実は首が痛くなった。