【映画レビュー】『CODA』エミリア・ジョーンズ

オスカー受賞したから観に行きました、
みたいになってちょっと恥ずかしいが
好きな人がおすすめしていたので。

この映画の素晴らしいところは、
耳が聞こえない生活がどんなか
観客にちゃんと想像させる仕掛けがあることだと思う。
ぜひハンカチ準備の上、ご覧頂きたい。

劇中のセリフの話。
もし笑われたらと人前で歌うことができない主人公に音楽の先生が助言する。

“ あのボブ・ディランの声をデヴィッド・ボウイはなんと表現したか知っているか? 『砂と糊を混ぜたような声』と言ったんだ
でもどんな声をしているかは重要じゃない
大切なのはなにを伝えるかなんだ “

ライターとしての自分に無理矢理重ね合わせた。
文章の上手い下手が重要じゃない。
自分の言葉でなにを伝えるか。

ちなみにボウイはディランを批判したわけじゃなく
“ 砂と糊を混ぜたような声で、俺たちを釘付けにする歌詞 “
とSong For Bob Dylan(ボブ・ディランに捧げる歌)の曲の歌詞で
称賛しているらしい。いい話だね。

手話の話。
聖書にある。その昔、人間がまだ一つの言語のみを話していた頃、天に届くようにと巨大なバベルの塔の建設を始めるが、怒った神が異なった言語を人間に与え、互いの意思疎通ができないようにして完成を断念させたという。
耳が聞こえないことは違う言語を話すことと似ていないだろうか。
手話は英語でSign Language
コミュニケーションのためのツールと考えた場合、手話も言語の一つといえる。
耳が聞こえないこと。それは違う言語を使うこと。
違う言語だと、ニュアンスが伝わり辛いよねー。
あえてその程度の違いと受け止めるのは、不敬だろうか。

私の配偶者の話。
彼は幼い頃から右耳の聴力がほとんどない。
だからいつも人と並ぶ時はできるだけ右側に立つようにしている。
左耳の聴力は問題ないので、会話する相手にわざわざ言って回るほどでもなく、
家族やごく親しい友人しかこのことは知らない。
だからこそ生活の中で、会話する相手に聞き返す回数が多くなること
何回も聞き返すことで相手に不快感を与えないようにすること
よく聞こえていなくてもなんとなく感覚でコミュニケーションを進めるようになったことなどを、出会った頃に打ち明けてくれた。
元来のボーッとした性格もあって本人はさほど気にしていないようだが
きっと知らない人は何度も聞き返されたり、あいさつしたのに無視されたりしたら
『誤解』するだろう。感じが悪い人だなとか、私の話全然効いてないじゃんとか。
しかたがないことだろうか。
想像力の欠如といえるか。
一方的な見方になってないか。
はたして自分は?


音楽の話。
主人公役エミリア・ジョーンズが歌うBoth Sides Nowを流す。
何度も何度も。
もう72時間は流している。
一方からじゃなく違う視点を持つこと。
雲について。愛について。人生について。
結局よくわからないんだけど、と歌詞にはある。
失うこともあるし、得るものもある。


最後に。
お気に入りのラジオDJの、はっとした言葉。

“ 障がいは私たちの身体にあるものじゃない
私たち、一人一人のあいだにあるものだ “

障害について考えるとき、必ず思い出す。

2時間の映画にはハッピーエンディングが必要だ。
でもほとんどの人生は2時間じゃないから
嫌なこと、つらいこと、恥ずかしいこと、逃げ出したいこと
何度も何度も、その繰り返し。
だけど、得るものもいっぱいあって。
嬉しくて、楽しくて、感動して。
どれも一方からじゃなく
違う視点で見つめたい。

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