わたしのままで
こんばんは。
2024年もよろしくお願いいたします🙂
災害の場にいる皆様が心穏やかに身もふっと緩められます様に落ち着き無事で安心出来て日々を過ごして行ける状態になりますことをお祈りいたします。
亡くなられた方々の御冥福をお祈りいたします。
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宣告されてその時までの受け止め受け入れ覚悟の期間があるのと無いのとでは様子が全然違うと思います。
わたしの妹死去してもう少しで5ヶ月になるけど…不意にぽこっと…本当に不意に出て来ます。
涙は落ち着いたけどもなんともいえない想いが湧きます。
悔いとか悲しみとかではなくて今世の妹の人間として生きた姿が、バッ、と出ることあります…
出るとなんていうか、、
よく生きたなー!って感じます。
20歳の時に手術するときまでは妹は誕生した時から馬力あって泣き声もものすごい声量で、妹が泣くとわたしはよく耳がキーン…としていました😅
エネルギッシュでなんでもトライして度胸あって怖い物知らずで生命力あふれていた。
手術後からはその生命力も抑えられた様になったようで…こうしたい!と思ってもこうしたい!動きが出来なかったようでした。
妹は自分の状態を受け入れているようでした。両親が悩む手術も妹は「するしかないんだからするよ。」と妹自身が決めて手術した。
術後の後遺症で、
こうだから…ああだから…って愚痴や不満をこぼしたのはわたしは聞いたことがなかった。
どちらかと言うと、出来ない自分を責めていたかな…。
手術したから病気でだからとかの方に向いていなかった。
自分に向いていた。からとても自分に厳しくなっていた。
あの厳しさが妹自分の生命力を鍛えていたのかもしれない。
時々は両親に泣いてわめいてバーッと感情を表に出してはいたようでした。
手術の後遺症は視力だけだったけど…肺と腎臓に合併症があったとは全く知らなくて。多分母も生前知らなかったと思う。
どっちもいつ何が起きてもおかしくない状態だった。
***
施設に入所するまでの何年間?は低酸素状態でいたらしく。「すでに亡くなっている人」のような状態で生存していたようだった…。
医師は「その酸素の状態に慣れていたのかもしれないね。」と話していたけど…😳慣れる酸素の量かなー。。80とかあったのかなー。カラオケでよく声出ていたけどなー。
知らないでいたから良かったのかも?
施設入所して肺炎(初肺炎)で緊急入院した時に酸素が45だかで医師がびっくりしてた。わたしは酸素が通常どれくらいってわからなかったので看護師のいとこに話すと、いとこは目を丸くして声が途中で止まってた😨。
妹の酸素状態がしばらくそのようだったことをその入院時に初めて知りました。
そこは施設入所してから通院していた精神科の病院だったので、状態把握するために肺炎が治癒してから手術した病院で全身検査して色々判明していた。
しばらくは自発呼呼吸で過ごしていれたけど、気胸発症して手術してからは在宅酸素療法で酸素携帯になっていました。
本人は自分の状態どこまで知っていたか。聞く時なかったから聞けなかったけど、医師には「本人にも自分の状態をちゃんと理解していてもらいたいから伝えてほしいです。わたしも話すところは話します。一度で理解出来なくても話していることはわかるので先生から本人に話はしてもらいたいです。」とわたしは医師に話していました。
わたしは医師にはなんでも心の思いを伝えるようにしていました
🍵🍵🍵
気胸手術してからはげっそり痩せて35キロを維持出来ていたのかな。
施設からのお便りで妹の写真を見ると、ほぼ骨と皮だった。腕の骨はわかるくらい。顔はほっそりって感じでげっそりではなくて良かったと思っていました。
食欲はあったようでしたので、喉つまりの心配がなくなってからはカロリー高めの差し入れしたりしていました。喉つまりしなさそうなものを選んで。
施設の企画で、みんなで調理したり食べたり、カラオケしたりが一番楽しかったようでした。
カラオケは二番目に入居した施設でもカラオケ出来たようでした。
その施設入居するまでにリハビリで入院していた病院でもカラオケしていたみたいでした。妹の酸素状態を整えるのリハビリが、カラオケだったようでした。
施設でも病院でも、職員さん看護師さんたちとコミュニケーション取って安心して過ごせていたみたいでした。
状態つらいときあってもまわりのたくさんの方々と楽しんで、楽しめて行けたかな?と思います。
いっぱい歌い尽くして行けたかな?😊
🪷🪷🪷
カラオケ好きだけど、「カラオケしたい!」って気が起きたら歌いたいです🎤
まだその気は起きてはいない…
鼻歌はめっちゃしてます😊
新年初記事は妹との思い出話になりました〜。
読んでくださってありがとうございます🥰
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