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臨終BGM じいちゃんを思い出す
爺ちゃんが亡くなったのは10月下旬。もう20年以上前になる。
体調が悪く黄疸が出て、すぐに余命2ヶ月の末期癌と診断されたが、その後2年ほど生きた。
ヒトの臨終の瞬間を見たのはこれが初めてだった。
モルヒネで痛みは抑えていたが、それでも最後の最後までもがき苦しんでいた。
お別れは悲しかったが、あんなに苦しむのなら早く逝かせてほしかった。心臓が強かったらしい。
幾度か「もう最後だ」という瞬間があり、その度に親族それぞれ「じいちゃーん!」「ありがとうねー」と泣きながら言い、そして持ち直す、を繰り返し、まるでドラマ撮影の撮り直しのようだった。
病気知らずで元気だった爺ちゃんが目の前で苦しんでいる。忍耐強く、面白く、優しい爺ちゃん。地域にも貢献した公私共にとても素晴らしい人だった。
孫と一緒に同じお菓子やアイスを食べる爺ちゃん。
足の爪に包丁落としても表情すら変えなかった爺ちゃん。
なんであんなに徳を積んだ良い人が、最後にこんなに苦しまなければいけないのか。ティッシュの箱をかかえて、何枚も消費し続ける。
泣くとはなんと体力を消費する行為だろう。
そしてその時、叔父の携帯が鳴った。
こんな時にマナーモード設定していないなんて…そんなお咎めすら吹っ飛ばす選曲。
臨終の病室に鳴り響く、着メロが絶妙だった。
氷川きよしの「箱根八里の半次郎」
やだねったら やだね〜🎵(メロディのみ)
号泣が爆笑に切り替わり、場内感情大混乱。
なんとか落ち着きをとり戻そうと努め、含み笑いに、不謹慎だと必死にこらえるがやっぱりムリ…
誰か一人が笑いだすと、収まりかけた笑い再発。
爺ちゃんとの尊い想い出を必死に手繰り寄せ、無理矢理悲しみモードに引き戻す。
しかし、大きくこいでしまった感情のブランコを一瞬で止めるなんて不可能である。
ティッシュの箱を持つ手がプルプル震える。目を見開き、ティッシュの箱の文字を一心に見つめる。
笑うな もう 笑うな…
ネ… ピ… ア… ネ… ピ…ア… ネ…ピ…
じいちゃぁあーーー〜ん
んぐっ…ぐ…ぐぁ ブハハハハハハ…
病室の外の人達には何事が起こったのかと思われていただろう。
爺ちゃんは朦朧としていたが、あの状況が理解できただろうか。
もし私だったら「え?なになに?何がそんなにオモロかったん?!」と目を覚ましたにちがいない。
その後、前述のドラマ撮り直しを数回繰り返し、
爺ちゃんの心臓は止まった。最後は吸ったか吐いたか思い出せないが、深い呼吸をした。
口元が微笑んだように終わった。
もったいない。
70年以上積み重ねてきたものが瞬時で消える。
そう思った。
でも終わりがあるから意味があるのかもしれない。
締切がない課題はいつまで経っても手付かずだったり、終わらなかったりするように。
爺ちゃんはたくさんの人の人生に大小の影響を与えて人生を全うした。
あの瞬間を思い出す度
生きてる間は機嫌良く生きたい、と思い
何を残せるだろうかという問う
モノや金だけでなく、想い出、生き方、知恵、知識、技術。次世代がツールとして使うことのできる何か。
子供達に引き継げるだろうか。
第一希望は寝ている間にポックリ。
第二希望は痛み控えめ緩和ケア(状況によっては尊厳死ぷりーず)
いつか自分がいなくなっても想い出してほしいという気持ちはそこまで強くはないけれど、面白いネタを一つ二つ残して逝きたい。