「三人称の天才」 “a genius called in the third person singular” ミュージックビデオに寄せて
天才か凡才か、音楽的なセンスはあるのか。
これらは音楽をする人自身がこだわることではない。
自分のしていることに誇りと喜びがあるか。それが遥かに大切。
たとえ他の誰からの評価も得られないとしても作曲を続ける。
そう決めている。
できるだろうか。
自信など、いまだ持ったことはない。
しかし、音楽の喜びが増す方へと進む、その歩みを止めさえしなければ続けられるはず。
「三人称」つまり「“彼/彼女”は、天才だ、才能がある、凄い」というような他者評価は、私が音楽をすることの核心ではない。
誉れとは、他者からの良い評価に対して私が感じるもの。
誉れに重きを置いてしまうと、他者依存の音楽になってしまうのではないかという恐れがある。
偶然にも良い評価が得られれば幸運。しかしもし否定的な評価を受けたら音楽をやめてしまうのか。もし誰にも関心を持ってもらえなければ音楽をやめてしまうのか。
いや、やめない。だから他者評価によってもたらされる誉れは、私の音楽の核心ではない。
私は、誉れに価値を置こうとする私の欲望を停止する。そう努める。
誉れの欲望を停止するとは、なかなか奇妙で硬い言い回しにも思える。
しかし私の実感では特に大仰なことではない。
誉れの停止は、他者を排することではない。停止することに悲壮感はまったくない。
何よりもまず、日々の暮らしがあること。
そして日々の暮らしとはイコール音楽のこと。
日々の暮らしは、他者との関わりの中にしかない。
他者との関わりがないところに音楽は生まれない。
何よりもまず、暮らしと地続きの音楽があること。
暮らしと地続きの音楽と共に生きる喜びに感謝し、暮らしと地続きの音楽に誇りを持つこと。
暮らしと地続きの音楽は、人間の音楽だ。
私は作曲を続ける。
人間の音楽をつくることに、私の意識と時間と力を注ぐこと。
人間の音楽をつくる過程、そこに既に喜びがある。
過程を経て、その音楽が形になったら、さらに、そこに喜びがある。
喜びは、誇りになる。
一人称の私が、私の音楽に対して持つ誇りが核心。
そのときの、そのままを、おさらいする。
4年近く前に書いた「三人称の天才」に寄せて。
■「三人称の天才」歌詞
ほまれ 誉れ 誉れ
とまれ そして 染まれ
それは不幸?
誰が決めるの?
あなた わたし 彼ら 他の誰か?
ほまれ 誉れ 誉れ
とまれ そして 染まれ
■「三人称の天才」録音データ
曲、詞、ウクレレ、声、ミュージックビデオ制作:フジサキヒロカズ
2018/05/16 自宅録音
2分14秒
“a genius called in the third person singular”
composition, lyrics, ukulele, voices, video creation:fujisaki hirokazu
05/16/2018 home recording
music time:2’14”
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