初期ヴィジュアル系の二つの綜合──LUNA SEAはいかにヴィジュアル系を殺したか?
この文章は第251回哲学道場にて発表した「初期ヴィジュアル系の二つの綜合」の発表レジュメを概ねほぼ抜粋し、誤字や細かい文章表現を修正して転載したものです。そのため発表の前半で行われた歴史的な解説の詳細部分は割愛されています。
発表内容の簡単なまとめは以下のリンクにて。
※重要な固有名詞に付与したボールドはすべて今回の改定で加えたものです。
第1次バンドブームを経て、若年層を中心とした都心部のライブシーンは、各々の地域にそれぞれの特殊な仕方で閉じたコミュニティを形成するようになった。そこではいくつかの音楽的類型が見られたが、多くは当時の80年代的商業ロックに代表されるようなパンクス、メタル、グラムファッションを「ロックスター」という普遍的な類型として捉え、それを自分たちで模倣・再生産することへの強い意識こそが同時に芸術的志向であった。
ゆえにそれらはしばしばその目的があくまで表象への同一化という志向性のみであることの謗りを受けるが、彼らはそれ自体で独立のものであるから、やはりお化粧系というジャンル名をそこにおいて獲得することとなった。それだけでなく、このように疎外体として形成された1つの潮流は、本質的構成を持たないものであるがゆえに自然と自由な自己探求を始めるようになる。このようにしてお化粧系と呼ばれたそれらのアーティスト群はその本質を欠く在り方への自己批判によって、独自の音楽的形式の自由をも獲得したのである。
X(現:X JAPAN)はそのような混沌とした80年代的インディーズシーンにおける最後の時期において、一つの頂点として登場した。彼らを率いるYOSHIKIは西洋の古典主義的音楽を野暮に流用した音楽性を打ち出すことと同時に、自分たちを囲い込む共同体を自ら形成することによって、これらの表象的幻想に取り憑かれた人々を包摂したと同時に、彼らの音楽的な探求を促した。さて、極めて似たような事態は関西においてもパンクロックを主体として起き、それはCOLORというバンドが興した「Free-Will」というレコード会社のもたらした連帯によって収束していく。これについての説明は今回の文脈ではさほど重要でもないので省くが、少なくともこのような事態は、あるアーティストをヴィジュアル系バンドと同定する上で、それがいかなる共同体において自身を位置付けていたか、ということが重要になる理由の一つである。
しかしながら、才能を交換する共同体としての連帯は達成されたものの、自分たちは本質を欠いた「イロモノ」であるという意識を常にくすぶらせていたわけだから、それはいずれにしても自分たちの音楽性を発展させ、自らが編成を持つ1つの芸術的文脈の中の一断片であるということを示す必要が生まれたのである。幸いすでに材料は十分に用意されていたので、彼らは自分たちのルーツを新しくフィクショナルに想像するということは考える必要がなかった。つまり、ビートロックとヘヴィメタルである。
もちろん、(根源を遡れば)パンクとハードロックというこれらの対立は、元となった英米においても深刻な一つの闘争的課題であったが、そちらでは1990年代にはいずれにしても様々な形で宥和、捨象、ないし自壊していき、両者ともに衰退していくものであった。ところがその点で日本は、ジャンルを自覚的に打ち立てて明確なコミットメントを持つこと自体が人気を得るということが同じような形では起こらなかったため、そのような乱立が、いくつかの衝突を挟みながらも、その域を出ないような様々な活動の中で自由に研究を続けられることになった。当然ながら、そこには先程の共同体としての連帯という調停が大きく寄与しているのである。
このようにしてすでに発見されていたヴィジュアル系を構成する2つの音楽要素の弁証法的発展に1つの合理的説明としての結論を与えたのがDEAD ENDであった。彼らは対立すると思われていたギターサウンドの歪みとクリーンの問題を完全にポストパンクの枠組みの中からメタルを作るということによって両立させ、いわゆる黒服系の伝統において自分たちを強く位置づけると同時にヴィジュアル系のジャンルの普遍的確立を目指すものであった(と、後から解釈されていく)。しかし、それは成功していたにも関わらず、ある特定のアーティストのそれ自体的な特徴を有するものとして受容され、極めて大規模に広まるような普遍的類型には至らず、あくまで解散寸前のアーティストが行った、コンセプチュアルな気の迷いとして、当時は見られたのであった。
しかしながら90年代に入り、LUNA SEAが登場すると状況は一変する。LUNA SEAにおいてもっぱらの関心事は、当時のビジュアル系に対する一種の美的な、一種のナルシシズム的な表現の深化の要請であったわけだが、それはコンセプトではなく、すでにある当然のものとしてその構成原理をなすものであった。本来明らかにない異質なものをその根源的実態として扱うというこの構想は実際困難なものではあるが、彼らは1994年にはその最終的な帰結として「MOTHER」を発表するのであった。
さて、音楽的な面でLUNA SEAに言及するならば、彼らにおいてもはや具体的な動線を持つ1 本のメロディーを弦楽隊から奏でるということは基本的にもはやありえなかった。LUNA SEAの楽器構成──2つの高音域を担当する弦楽隊とそれにあくまで時制的なメリハリを与えるドラム、そして実は裏で実体的なメロディーを鳴らすベースという構成──は、ここでは完全に完成された類型であり、同時に和声学的な合理性を兼ね備えたものであっただけでなく、それが付随的なコンセプトではなく、その内側から手段として妥当なものであった。ということは、ヴィジュアル系の持つ基本的なものの中に何かを吸収するという行為を象徴化したものでもあった。しかしながら、本質的を欠いたものの中に別のものを投げ込む、という行為は、それ自体自己を象徴化する行為である。このようにしてヴィジュアル系は「ROSIER」において1つの決定的な転換とその定着を行うのであるが、もはやそのことが逆説的にさらなる自己同一の困難さへの第一歩であった。
そのような約束された虚無に向かいながらも、LUNA SEAの提示した音楽的理念は、その後もあらゆる形で変奏を迎えていった。例えば、DEAD ENDの示した路線をより深化させ、上モノとしてギターに次いでさらにシンセサイザーを加え、それをベースが撹乱するという形をとったL'Arc~en~Ciel、あるいはこの形式を歌モノの方法論としてより簡素に解釈していったLaputaやROUAGEといった名古屋系の人々。しかし、その後に残されたのはより深刻な表象化であって、それはかつてヴィジュアル系を1つの共同体にまで高めたが、そのような自分たちを「ヴィジュアル系」という外化された表象として認めなかった人々への逆説として現れたものであった。
そこにおいては、本来のヴィジュアル系の理念であった「ヴィジュアル系のみにおいて成立する音楽性を求める」ということはもはやなくなっているのだから、これ自体疎外的なものであるが、むしろそのことによって彼らはヴィジュアル系にしか起きないような事実を体現しているのである。このようにして成立したのがいわゆるコテ系や、あるいはソフト系と呼ばれる人々であって、彼らのほとんど多くは自認したヴィジュアル系である。
コテ系の人々はヴィジュアル系の伝統を明確に意識してそれに従属するわけだから、一見した上では十分にヴィジュアル系的な表象を音楽ないし文字通りヴィジュアル面でも達成しているが、その理念を決定的に欠いているという点で、やはりどこまでも非ヴィジュアル系的である。ここで改めてこれまでのようなさらなる発展が期待されるが、しかしながら、ここにはもはや先ほどのような転回は存在せず、すでに音楽的探求という余白自体乗り越えられたものであるから、その次に改定されるべきはそれ以外の何かである。そして、それが音楽以外の外的なもの、つまりヴィジュアルに向かうのであるが、しかしもはやヴィジュアルが損なわれてしまうならば、それはもはやヴィジュアル系ではないという矛盾を抱えるのである。
この点ですでにヴィジュアル系というジャンルはその後の意味において完全な限界を迎えたのであった。以上から、既にあるヴィジュアル系というジャンルは完全にジャンルとしてその役割を終えている、というよりもこのような転換を生んだある一つのより高次な原理が、一種の概念の運動としてヴィジュアル系という一つの状態を生んだ、というのが本稿の結論である。
だから、ヴィジュアル系の理念を受け継ぎ、それを志向しようとする人々がいて、音楽的にであれルックス的にであれ、またあるいはパフォーマンス、更に突き詰めれば先述したその理念自体であったとしても、それ自体が他の要素とくっついて更に半ば強制的に展開されるのである。しかし、やはりその運動の中にしかヴィジュアル系というものは存在しないのであって、もしそこにそれほどの寛容さは認めないのであれば、それは常にヴィジュアル系ではない。だからこそ「それ」を最初から「ヴィジュアル系」と呼ぶ事を忌避した人々の慧眼は素晴らしかったのだが「それ」は必然的にそのような名称を持って生まれてきたのだから、やはり最初から、それ自体既に外在的なものである。だから、このようにしてヴィジュアル系とは必然的に失われるものであって、それはまさにL'Arc~en~Cielの「As if in a dream」の冒頭にて歌われているようなものである。
$${\textit{いとしい安らぎは夕暮と共に失われ }}$$
$${\textit{静かな時間が気付かなかった隙間をひろげた }}$$
$${\textit{私にはそれが 今は塞げないことを知る }}$$