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ユニバ解釈・ダービーメタリオン 2024/03/02の日記

本日は去年からほぼ毎月参加している、哲学道場という集まりがあった。テーマは『聖書のメタ解釈から探る普遍的理解』。

発表者曰く「聖書のどの解釈にも共通するような普遍的な読み方の構造を抜き出す」という試みであったようだが、結果としてはやはりあくまで数ある中の一解釈に落ち着いたような印象であった。

とはいえ面白かったのも確かなので、あとから見返しておくためにも、私が覚えていて理解できている限りで内容の論点をまとめていきたいと思う。

また、発表者であるマンマのさんま(@manma2020)氏がレジュメとして用いた文章はnote上で公開されており、誰でも読むことができるのでそちらも参照されたし。

『創世記』におけるアダムの自己認識の変化

今回の発表の中で、発表者は聖書の中でも特に創世記とイエスのにおける失楽園のアダムの自己認識の変化に焦点を当てて自説を展開している。

まず創世記について。神によって生み出されたアダムは他の生物に名前を付けていったが、ある時に目の前に出現したイブを見て「これは自身と同型の他者だ」と感じ「女」と名付ける。ここで重要なのは、アダムはまだ自己を自己自身によって把握することができてはいないこと。アダムは同型の他者であるイブを通してアダムを意識しているにすぎず、自己自身による把握は、この段階ではまだ留保される。

そして、蛇によって唆されたアダムとイブは知恵の実を食べ、自身の死や善悪、直接捉えられた自己(と、そこから開けている世界)を意識するようになった。だが神はそれに対して怒り、二人に対し、やがて死ぬ有限の存在としての性質を与えた。このようにして神は世界が自分から開け、神と同等の視点を持っているにも関わらず、被造物である以上はいずれ死ぬジレンマ(原罪)を持った存在になる罰を与え、二人を楽園から追放した。

そして「原罪」を獲得したことにより、アダムはイブを「女」ではなく「イブ」という名をつけることによって認識することとなる。

主な疑問点

まず、発表者が示す自己認識の手順は非常に特殊なものである。一般的な哲学の議論では先に単なる「自体」があり、その与えられたまま(an sich)の認識から他者や自らでないものとの矛盾を知る(für sich)段階を経ることで自己認識と呼ばれるものを確立する。

この考え方はが多くの議論で基本的な知識として共有されているし、哲学を知るものならばある程度は自覚している、非常に有名な言説でもあろう。しかしながら、発表者にとって自己の認識とは、他者を通して行われたものが先にあり、それを経て「直接自分を捉え」た認識が成立するとしている。

なるほど、そう考えれば知恵の実が言語を始め様々な自己認識の道具を与えたものとして説明されるための舞台装置として理解されるためにはある程度納得がいく。では、その説明を受け入れたとして、各個の段階(例えばイブから実に至るまで)はどのようにして成り立っているのだろうか。そして、なぜそれが必然的な解釈なのであろうか。そして、それぞれの段階はどのような形で名指されるのだろうか。

前述の通りだが、発表者の言わんとしているこの主張は、哲学的な伝統とは一線を画すものである。その整合性については私も知るところでないし、いずれまた別の機会に発表者本人からの説明があるだろうが、少なくとも非常に奇特なものであることは間違いない。であればこそ、そこには一定の独立した解説・注釈を先に加えて欲しかった。発表を聞いていた私としても、いきなり大胆な主張が出てきて驚いたし、発表中にもそれに伴うであろう大胆な基礎付けを期待したのだが、それも特になく、かなりサラッと話が進んでいったので更に驚いただけで終わった。

その他、細かい点としては本来の失楽園ではそれぞれ個別の性質を持って二本ある描写が記述されているはずの生命の樹が一本しか話題に上がらなかったことや、「普遍的解釈」であるにも関わらず、アダムのイブに対する認識が「自己と同型の他者」という非常に現代的なジェンター観を盛り込んだものであることが指摘された。

私が最も気になったのは、やはり自己認識に関する発表者の考えであったが、参加者の中には知恵の実を食べたことでアダムとイブが手に入れた善悪の観念について関心がある方もいたようである。いずれにせよ、まだ把握できていないことが多いように感じる。

『新約聖書』にてイエス・キリストが贖った人類の罪

発表者の関心はアダムとイブの失楽園に始まり、そこから一気に数千年の歴史を飛び越えてゴルゴダの丘で行われたイエス・キリストの磔刑に視点を移すことになる。

失楽園によって生み出された原罪を人類は子々孫々に渡って受け継ぐこととなったが、それを後の人類は自覚することはなかった。しかし、イエスが十字架の上で罪を贖い復活を経て信者たちにその事実を広めたことで、信者たちも原罪を自覚するようになった。

さて、十字架にかけられるイエスの本当の悲しみは、イエス・キリストという個人が処刑されることではなかった。なぜ神に選ばれ、十字架の上で苦しむイエスという男がこの私なのか、これが彼の悲しみの理由であった。だが、それを見ていた人々だけでなく神でさえそれを理解することはできなかった。なぜなら、他の者からしてみれば、イエスという男が苦しみを感じていることと、それが私であるということは分離しない事実として捉えるしかないからである。

そしてイエスは復活し、自分がイエスという個人が自身であることと同時に、ここから世界が開けている個人であることを確信した。さらに蘇ったイエスは自らの救済とその自己認識を一致させ、弟子たちにこの教えを伝えるように説いた。このようにして、今日の我々も自分だけが「例外的な個人」だと認識できるようになった。

疑問点

先程の創成期に引き続き、発表者の考える自己認識の問題は永井均の独在論を引用しつつ、自身から世界が開けていることの不条理を嘆くイエスが話題になっている。しかし、その解釈は彼がその事実を本気で苦痛に感じているということが前提になっているため、そうでない場合(解釈)を捨象してしまっている。

この場面において十字架上のイエス・キリストは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫んだ以外にもいくつかの言葉をそこで発しているが、一般的な解釈ではそれらは全てイエスが自らの人間としての役割を示すために行ったものであり、彼の嘆きはイエスが人類を人類の側から救済するために行ったパフォーマンスに過ぎないとするのが普遍的である。だが、発表者の主張するところではイエスは本当に自身の運命に嘆き、それを訴える言葉がこの「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」だったとされている。

確かに、それが実はそうだったという解釈として主張するのであれば、ある程度の妥当性もあるだろう。とはいえ、確立されたのもここ数十年であろう永井の独在論や、その他発表者の含意は明らかに他の解釈とはかなり異なったものであるため、それがどこにでも共通し、過去の聖書解釈者たちが前提にするような「メタ解釈」として成立しているかどうかは甚だ疑問である。

また、独在性という性質をわざわざここで問題にする必要があったのか、という指摘もあった。もちろん、あらゆる人間にとって独在性は存在する。それは間違いないことだが、ここでわざわざそれが妥当するだけの議論を特別に取り上げてセクション化すべきだったかどうかについては、やはり議論の余地が残るだろう。

それに加え、独在性を読み込む事自体への指摘として、嘆いている対象としてなぜイエスだけが切り抜かれなければならないのか、という反論もあった。なぜなら聖書とは本来「契約」の書であって、ここではイエスという一個人が象徴的に用いられているが、普通なら彼らユダヤ教分派の運命がキリストを例にして自らの民族の運命の受難を語っていると考えるのが妥当だからである。

そしてイエスの救済についても、発表者の解釈では全ての人々が受け取れるようなものになっており、キリスト教にとっての罪人にもそれが適用されてしまうため、これ自体が根本的に聖書の意図と異なる読み解きになってしまっている。

まとめ

聖書のストーリーと独在性を絡め、自己認識を確立する手順を解説する発表者の意図そのものは興味深いものであったが、それが「どのような場合でも共通する」メタ解釈と呼べるものとして成立していない印象を受けた。

また聖書という文献を個別に取り出したこのについても単に自身の主張を述べるためには単独のケーススタディにしかなっておらず、それよりもどの物語にも広範に当てはまるといった方向性のほうがよりベターではないかという指摘があったが、私もこれに同意する。

創世記に失楽園から場面が移った時点でも「聖書の中でもなぜそこまで離れた部分を無理矢理繋げたのか」という指摘も投じられた。なぜなら、それらは書かれた年代も異なれば、そこに一貫した信念や主張があるという見方も一般的でないからである。

私自身の感想を言えば、聖書を先に出したのはやはり悪手であり、この解釈を基礎付ける説明があるのであれば、そちらを先に提出するのが自然だと感じた。今回の発表でその片鱗が見えたさんま氏の哲学についても私は関心があるので、いつかそちらも発表していただきたい。

最後になるが、聖書という巨大なモチーフに自らの哲学のみを持って立ち向かうさんま氏の姿勢は、今回の発表の整合性とは独立に、哲学者として極めて尊敬に値するものであると感じた。さんま氏自身の哲学もまだ理論として明かされていない部分が多く、今後の展開が非常に楽しみである。

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