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玉入れ式コミュニケーション


先日、同居人の最推しの生誕祭を盛り上げるべく、中高同期達がシェアハウスにたくさんやってきた。

おめでとうございました



13歳から18歳までの6年間という、人格形成に最も影響を与えそうな10代を同じ校舎で過ごした私たちは、大学生や社会人に進んで世界が広がってもなお定期的につるみ、学生時代とは異なる繋がりを生みながらもだいたい似たような面子で日々遊びまくっている。

そんな愉快な仲間達がケーキを作っている時、直前にレモンの蜂蜜漬けを作ろうとしてちょっと指を切ってしまった私は、少し輪から離れて別の作業をしていた。

Twitterを眺めながら耳に入ってくる周りの会話を聞いていると、突然強烈な違和感に襲われた。何かがおかしい。会話を追うことができない。

意識的に聴くと、違和感の原因が一度に耳に入ってくる声の多さだとわかった。5人で喋っているはずなのに、常に3人以上の声が同時に聞こえている。
つまり、会話の線が入り混じりながら全く途切れずに展開され続けているのだ。というかもう少し正確にいえば、誰かの完結した発言に対して反応しているわけではなく、1人目の発言がまだ3割くらいの段階で、それまでに出た情報に対して次の発言が行われている。これは"線"ではないのだろう。会話をしているように見えて、私たちは「ただ喋っているだけ」だったのだ。


夕飯を食べるタイミングで全員が揃った時、この話をしてみると、案の定8人中4人くらいが同時に発言し出す大盛り上がりの議論となった。

完全に内輪話だが自分達を見つめ直す機会となり非常に面白かったので、印象的だった内容を思い出してみる。

会話ってよくキャッチボールに例えられるけど、うちらはボールを受け取ることも投げたボールの先を見ることもしない。「話題」というカゴに向かって各自が好きにボールを投げ入れてるから、『玉入れ』だよね

これ、めちゃくちゃしっくりくる。
たまに目の前にボールが飛んできたらそれは受け取るし即投げ返す。だから完全にお互いのことを無視しているわけではなく、一応一緒に会話はしているのだろう。ただ、視線は相手ではなくあくまでカゴ(=話題)に向いている。
私たちの会話を聞いていた、その場で唯一の大学以降の友人は、『テレビでMVを見て各自が好き勝手喋っている状態に近い』と指摘し、全員が納得した。なるほど。

なぜこんなコミュニケーション方式なのか、という疑問に対して「Twitterでは」という仮説が出たのも面白かった。中高時代のメインSNSがTwitterだったからこそ、常に空リプを送り合うようなTLのコミュニケーションが染みついてしまっているのかもしれない。Twitter社に怒られそうな責任転嫁。

ワンバンじゃなくてボレーで返してんだよ

「けどさ、一応人の話は聞いて、それに対して反応してない?」という弁明(?)に対し、テニスに例えて会話のスタンスを表した的確な表現。今思うとこれ言ってたのはテニサー出身の人なので、各自が各自のフィールドで表現してくんのめちゃくちゃ面白いな。

そう、私たちは発言が一旦地面に落ちて落ち着いてからではなく、相手の領域を離れたら直ぐに返している。大昔やっていたWiiスポーツのテニスで、弟とボレーの応酬をしていたことが脳裏に浮かんだ。

しかも私たちはボレーする時にだいたい「けどさ」と否定から入るので、①人の話を最後まで聞く ②否定から入らない という2大ルールを土足で踏みつけていることがわかった。まあ、治外法権ということで…

「相手がゆっくり落ち着いてテニスしたかった場合は、ボレーはしちゃいけないね」と、『相手によってコミュニケーション方法を変える』という非常に重要なポイントを皆で改めて確認した。

言いたいことあるやつは、言うだろ

コミュニケーション方法をその場の雰囲気によって変えるべきと言うことに関連して、喋る量が偏らないように、話していない人に振ったりした方がいいのかなーという話題に。これ個人的には無茶苦茶難しいんだよな。その場にいた何人かは「言いたいことがあれば、言うでしょ」というスタンスだったしどちらかといえば私もそう考えるが、言いたいことがあった時に自ら会話の主導権を握って発言できる人が、必ずしも全員ではないのだろうとも思っている。

また、喋っていない人が必ずしも「喋りたいけど喋れない」訳ではなく「聞いている方が楽しい」場合もあると思う(自分もこういう瞬間はある)。だからこそその人の表情と身振りとかを見ながら、会話量や話を振る相手を臨機応変に見定めないといけないんだろうな。コミュニケーションって、奥深〜〜

とりあえず友人同士で話す時は全員が「言いたいことがあるやつは言うだろ」という前提の下に好き勝手喋っているので、めちゃくちゃ楽。言いたいことがありすぎてヒートアップした結果、だんだん挙手制に移行し出すのもまた一興ですね

人って全体の7割くらいを自分が喋ってると満足するらしい。これって常に複数人喋ってる方がお得じゃない?

7割の話、Twitterで見たことある気がする。人は相当な割合を自分の話で占めないと満足感が得られないらしい。そう考えると常に複数人が喋っており、会話の絶対量が多い私たちの玉入れ式コミュニケーションは非常に効率が良い。おそらくその場にいた7人の高校同期達は、グループに分かれず大人数で会話しているにもかかわらず、全員が「今日も7割喋ったわー」という満足感と共に帰宅しただろう。

会話の絶対量と言えば、自分達が早口だということに大学入学後に気付いた、と聞くことがある。自分含め、確かにそうだと思う。
これは単に言いたいことが沢山あるだけではなく、もしかすると『早く言わないと遮られる』という潜在的な危機感もあるのかもしれない。
ほぼ闘いである。


お互いの発言に影響を与え合い、重なり合いぶつかり合いながら威力を増して最終的には始まりと全然違うところに着地する自分達の会話が、ニュースで目にする竜巻のように思えることがある。
そう考えるとなおさら、周りの雰囲気とコミュニケーション方法の組み合わせは考慮しないといけない。整地された花壇では、竜巻は起こしてはいけないのだ。

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