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どこかで23歳を迎えている君に

しばらく会えなくなってしまった友人について、この2ヶ月半のこと、考えていたことをつらつら書いていこうと思う。誰のためでもなく自分の整理のため。でもそれを敢えて公開するのは、みんなにも忘れて欲しくないからです。


◯ずっと悲しいけど、私はとても元気

亡くなったと聞いた日、何もできなかった。電話の向こうで泣き叫ぶ彼女のお母さまの声が、頭の中で延々とリピート再生された。どうして、なんで、後悔、戸惑い、怒り、途轍もない悲しみ。あらゆる負の感情が土砂災害のようにごちゃごちゃの黒い水になって、自分の中を満たしていった。

一番しんどかったのは、お通夜の晩だった。
まるで別人かのような姿で棺に横たわる彼女を目の当たりにして、信じる信じられないとかではなく、確かな事実として、私の知る彼女はもういないらしい、という事実を突きつけられた。
家に帰ってご飯を食べ、風呂に入り、部屋に籠もった。心ではなく、身体から壊れていくような気がした。細胞一つ一つの結びつきが解けて、組織が崩壊していって、自分がバラバラになっていくように感じたい。このまま砕けてしまいたい。生まれて初めて「死んでしまいたい」と思った。

それでも、私はすごく元気だ。
1週間で5kg落ちた体重は1週間で戻り、2週間後には普通に家を出て、友達と遊べるようになった。会社には毎日ちゃんと行って(というかテレワークだけど)、いつも通り常に笑顔を貼り付けて、上司に別の上司の愚痴を吐きながら図太く生きている。

大切な友人がいなくなったのに、今まで通りの生活を送ることは不誠実なのではないかと、散々悩んだ。だけど、たぶん私のそういう部分も含めて彼女は好きでいてくれたのだろうと思うようになった。私が友達と遊んで笑っているからといって、それを咎めるような人ではないと彼女のことを信じられるようになってから、自分が自分の生活を楽しむことに引け目を感じなくなった。

あの日から変わらず、毎日悲しい。ずっと悲しい。
誰と何をしていても、BGMのようにずっと彼女のことが頭の中にある。後悔も悲しみも消えることはないし、むしろ日に日に濃くなっていく。
だけどこの苦しさは、他のあらゆる感情と共存可能なのだと思う。悲しいけど楽しいし、悔しいけど嬉しいのは、何も間違っていないのではないかと思う。

もし似たようなことで悩んでいる人がいたら、一緒にマックでダベりましょう。


◯死んだ人は誰かの心の中で生きるのだということについて

よく言われることだ。生きている人が思い出すことが、亡くなった人にしてあげられることなんだって。私の心を心配してくれる友人たちも、似たような言葉をたくさんかけてくれた。

でも正直よくわからなかった。人は死んだらそこで終わりだと思っていた。

それでも、いつでも思い出せるように、13日で会話が途切れたLINEのトークはピン留めして常に一番上においた。名刺入れを買うときは彼女が好きだったブランドにした。月命日をGoogleカレンダーに入れた。生活のあらゆるところに彼女を想起するものを置いた。けれどやっぱり、こういう行為で私が思い出すことに、何か意味があるようには思えなかった。

そんな時、こそあどの森シリーズ『水の精と不思議なカヌー』のとあるシーンを読んで、ようやく「誰かの心で誰かが生きる」ということがわかった気がした。(最近の私はありとあらゆるところでこそあどの森の話をしており、見飽きてるかもしれないが、我慢してほしい。本当に素晴らしいのです)

主人公スキッパーは、とある不思議な出来事に遭遇し、「自分が誰かに拒否されている、嫌われている」という状況を初めて経験する。胸の中が冷たくなり、どうすればいいのか全くわからなくなってしまったスキッパーは、胸の中にいるこそあどの森の住人たちに話しかける。一人、真っ暗な家でうずくまるスキッパーに、胸の中の住人たちはアドバイスをしていく。まずはハーブティーを飲んでみたら。さあ、問題はどういうことなんだい。対話を通してスキッパーは立ち直り、状況を改善するために行動することを決意する。

なるほど、こういうことか、と思った。
自分が困ったときに、胸の中で言葉を投げかけてくれる人。それは確かに「誰かの中で誰かが生きている」と言えると思った。
確かに私の心にも、色んな人が生きている。亡くなった彼女もいるし、家族も、他の友人たちもいる。辛いときには、みんなが投げかけてくれた言葉を思い返して、迷うときには、この人ならどうするだろう、と考える。

そうやって私の中で勝手に構築されたペルソナとして生きることが、亡くなった彼女のためになるとは微塵も思えない。やっぱり、人は死んだらそこで終わりだと思っている。でも、私は彼女と生きているのだと主張することは、誰かに外野からとやかく言われるものでもないのだと思う。何だか煮え切らない変な書き方になってしまったが、私の中で彼女はいつも笑いながら「◯っちゃんはそのままでいいよ」と言ってくれるのです。


◯大切な人が死にたいと言ったら、止めるべきか、止めていいのか

この前友人から、

人生に絶望していて、今まで生きてて良かったって思ったことがほとんどなくて、将来に希望を見出してない人が、「苦しいから死にたい」って言ってた時に、それでも止めなきゃいけないのかな。それって生きてる側のエゴなんじゃないのかな。って思うんだけど、どう思う?

と聞かれた。言いたいことはわかる。けど、それは違うんじゃないの、とも思う。正解はないし私の意見も変わるかもしれないが、今の気持ちを書いておくことにする。

まず前提として、私はエゴを肯定する。というか、生きていくことはエゴでしかないと思う。大好きな『好きなことだけでいいです』の歌詞に「全人類が好きなことやったら 世界は滅亡するけど」とあるが、誰もが他人のために生きたら、世界は滅亡すると思う。そもそも人間なんていらないしね。

話が大きくなってきてしまったので戻すと、特に人間関係はエゴだと思う。例えば誰かに他愛もない話をするとき、この話をすることに相手の利益はあるかな、なんてイチイチ考えてらんないし、友達になりたいと思うときだって、完全に自分中心だ。自分が親しくなりたいと思うから、話しかけるのであって、相手にとっての自分の価値は最優先事項には来ない。

ということを踏まえて、エゴだろうがなんだろうが、生きていて欲しい人が死にたいって言ったら、絶対に止めたいと思う。

生きて欲しい人には、生きていて欲しいと思うしそう伝えたいと思う。だって私は誰かのために生きてるわけじゃないから。生きていて欲しい人のいる世界といない世界だったら、いる世界の方が100%素敵だから。


そして、生きて欲しいのだと伝えた上で、その人がその人の在りたい姿で在れる空間を用意してあげられたらと思う。

スピノザの生み出した有名な概念の一つに「コナトゥス」というものがある。(またかよ、と思った皆さん、もう少しお付き合いください...)
コナトゥスは「自分の存在に固執しようとする力」で、この力こそが本質であるとスピノザは述べている。そしてコナトゥスよりも大きな外部要因が働いたとき、つまり自分の存在を維持しようとする力以上の圧倒的な原因に囲まれてしまったとき、人は自殺するのだという。

スピノザに影響を受けているバトラーは、コナトゥスが社会的承認を必要とすることを強調し、自殺について「その生は別の社会的世界では可能であり、その死は別の、そこでなら生きることが可能であるような社会的世界を希求するものとして考えることができるのではないか」と言及している。

死にたいと思うような圧倒的な苦しさを取り除くのは、正直難しい。難しかった。ただ、その圧倒的な外部要因とは別に、誰かからの揺るぎない承認が助けになり得たのかもしれないと今では思う。それしかできないけれど、それでもその人のことを認め続けることは、確かな希望になるのではないかと思う。

苦しんでいた彼女を全肯定し続けた自分への慰めであり、そして自戒でもあるが、少なくとも今の私はこんなふうに考えている。


こういうことをゴチャゴチャと考え続ける私のことを彼女はとても気に入ってくれていて、よく電話をかけてきては話をすることを求められた。読みたいと言ってくれたから書いていた大学4年間の自分史は、途中で放り出したままになっている。

どこかへ行ってしまった彼女が、あたたかい場所で23歳を迎えていることを祈っている。

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