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もう夏なんていらない

Sセメが終わり、気がついたら8月も半ばになっていたある日、2020年の夏がなんの記憶にも残らないまま過ぎてしまうことが急に恐ろしくなり、「このまま明日死んだら後悔するな」と思ったので、出かけることにした。

去年の部活オフは全日インターンで大手町に缶詰めだったので、夏にちゃんと出かけるのは2年ぶりだった。遊びに遊んで、東北から帰るバスの中で、もし気候変動とかで地球がバグって「これから夏は一生来ません」みたいなことになっても、全然問題ないなあと思った。もう、夏はいらないかもしれない。

1.スカイツリー

「夜景が好きな人の気持ちがわからない。何が綺麗なの?光に群がる虫と同じじゃん」と躊躇いもなく暴言を吐いていた私が「もしかして自分、実は夜景好きかも...?」と思い始めたのは2月に東京タワーに上ったときだった。今まで蛾扱いした皆さん、本当に申し訳ない。私も蛾でした。

平均して2日に1回はオンラインで話したり顔を見たりしているが、対面で会うのは約5ヶ月ぶりだった部活同期に会うのはそれだけですごく嬉しかったし、2日前の夜中の1時頃LINEしたら秒で返事をくれた先輩と久々にお会いして近況報告できたのも楽しかった。

数日前からTwitterで事前に混雑状況を調べていたが、それよりも空いていたため、日が落ちるまでかなり長い間スカイツリーの展望台にいた。曇っていたので遠くまで見通すことができなかったのは残念だったが、隅田川沿いの体育館など、馴染みのある建物を上から眺めるのはなかなかよかった。東京って、どこまでもどこまでもビル街なんだな。ガラスの向こうをぼーーっと眺めていると、ビルが全部お墓に見えてきて、東京自体が巨大な墓地のように思えてきた。私も来年からこの中に取り込まれるのだ。恐ろしい。

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そしてようやく日が暮れ、お待ちかねの夜景。インストールした東京スカイツリーのアプリの方が数倍綺麗、というなんとも言えない状況に笑ってしまった。加工しすぎだって。詐欺じゃない?これからスカイツリーに行く人は、インストールしないことをおすすめします。

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夜景が好きかもしれない自分のことを受け入れつつはあるが、なんで人間は夜景を美しいと思うのかに答えが出せていない。誰か何か考えがあったら教えてください。

2.バンジージャンプ&川遊び

昨日5ヶ月ぶりに会ったのに次に会うのが10時間後なの、極端で笑ってしまった。
部活同期2人、後輩2人の5人で群馬県へ。レンタカーを借りて部活の人たちと出かけるのが初めてだったし、ご飯以外で後輩と遊ぶことも初めてだったので、新鮮だった。あと横浜市民の方がマジョリティなのも珍しい体験だった!笑

昼過ぎにバンジーへ到着。向かっている途中、めちゃくちゃそれっぽい橋を見つけて、「あれから飛ぶんだ!!!」って大盛り上がりし車の速度を緩めてまで写真撮ったのに、全然違ったのが爆笑だった。テンション上がりすぎ。

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バンジージャンプ自体は、加工品の出荷ラインかな?ってくらい流れ作業で、ドキドキを堪能する時間も余韻に浸る時間もなく、気がつくと終わっていた。飛び出した瞬間の浮遊感と景色しか覚えておらず、気がつくと大きくスイングしていたが、それでもめちゃくちゃ気持ちよかった。クセになりそう。次は100mの茨城、そして200mの岐阜にも行くことを5人で決意した。

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そのあと昼ご飯を食べるために食べログで評価の高かった蕎麦屋さんへ向かったのだが、ここで恐ろしい体験をすることとなった。

ネットの情報やナビによると、そこはお土産屋さんやいくつかの食堂、体験工房などが密集した道の駅のような施設で、実際すごく整備されて雰囲気のある場所だったのだけど、びっっっくりするくらい人がいない。駐車場にはそこそこ車が泊まっているのに、現地の人も観光客もほとんどおらず、お店はどこまで行っても全部閉店。看板通りに進んでも食堂があるべき場所には何もなく、腹を空かせた私たちは食べ物を求め、炎天下で陰1つない砂利道を行ったり来たりした。あの場所は一体なんだったのだろう。蜃気楼だったと言われても、納得してしまえる怖さがあった。

恐ろしの里を出て、ようやく蕎麦屋を見つけ、昼を済ませた後は、駐車場を探して川遊び。川の水が思っていたよりもずっとずっと冷たくて、びっくりした。海みたいな温度を想像していたが、川ってこんなに冷たいものだったのか。足首まで浸かるので精一杯でずっと岩の上に立ち尽くす私と、全身浸かってはしゃぐ後輩の差が「1年」か...と学年差を痛感していたが(実際は浪人もあるから同い年なんだけど)、一回浸かっちゃうとむしろ暖かいという謎理論を信じて泳いでみると、まさかの本当だった。むちゃくちゃ気持ちいい。

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川辺にダムを作ったり(何年ぶりだろう)、石で水切りをしたり、川を満喫して、帰路に着いた。車を返してから餃子で乾杯。最高では??

3. 東北旅行1日目(仙台、銀山温泉、山形市内)

バンジーの翌日から、春の沖縄に続き、またもや弟とのふたり旅。誘ったとき弟には「友達いないの?」って言われたんだけど、私もしかして友達いないのかな...まあそれはさておいて、自分のやりたいことを最優先にできることに関してはひとり旅並み、私の行動に文句を言わない(言わせない)、適度に喋り相手で適度に空気、何も言わなくても喜んで長距離運転してくれる、など、友達と過ごすときの大笑いとかはない代わりに、ストレスフリーなんだよなあ。だから一緒に行ってくれる友人を探すのが面倒になると、つい弟を誘ってしまう。暇そうにしていたし。

朝7時半にバスタ新宿を出て、昼過ぎに仙台駅に到着。仙台といえば、伊坂さんの住む街であり、多くの伊坂作品の舞台でもある。バスを降りた瞬間から、見覚えのある通りの看板が目に入り、テンション爆上がり。建物や地名の知識があるせいで、初めて来たはずなのに「来たことある感」がすごかった。アイネクライネナハトムジークの表紙と同じ構図の写真を撮り、遅めのお昼として早速牛タンを食べた。なぜ仙台って牛タンが有名なのか、調べるほどではないけれどずっと疑問だったが、仙台の人が牛タンの調理法を確立し、全国に広めたらしいことを今回ようやく学んだ。牛タン大好きなので、昔の仙台の人には大感謝。頑張ってくれてありがとうございます。

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レンタカーを借りて(4日間で11000円。安くない??)、山形県の銀山温泉へ。事前の下調べによると大正の雰囲気を残す木造建築が立ち並ぶ温泉街、ということだったが、まさにその通り。川沿いに旅館が立ち並ぶ様子は、これぞ古き良き温泉街といった感じだった。なぜかこの日はほとんどのおみやげ屋さんや食べ物屋さんが定休日で閉まっていたので、歩き回って足湯に浸かりながら日が暮れるのを待った。ガス灯が点き、パンフレットでよく見た風景に。雪がちらついていなくても、十分雰囲気を楽しめた。泊まると1人2万くらいするので宿泊はしなかったが、見て楽しむ分には今回のように寄り道だけで十分だったかも。

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その後山形市へ。山を下りながら、もしかしてこれ星が凄いんじゃない?と思い車を止めて外に出ると、満天の星空。私の人生で一番星が見えたのは去年の夏にモンゴルの草原で見上げた夜空だったんだけど、それに迫る勢いで星が見えた。弟はこんなに星を見たのは人生初めてだと言っていた。これがここに住んでいる人にとってはなんてことない日常なんだろうな、と思うと、美しさってなんなのだろうと思ってしまう。

山形市内のホテルに到着し、経費節約のため夕飯を松屋で済ませ、就寝準備。しかしここで行きのバスで読み切るつもりだった『キャプテンサンダーボルト』をまだ読み終わっていないことに気付き、弟の寝息をBGMにしながら深夜2時くらいまでかかって読み終えた。読むのは3回目くらいだが、やはりめちゃくちゃ面白い。ノンストップエンターテインメントとはこの作品のためにある言葉だと思う。ずっとドキドキしていた。高校生だった発売当時のこと、イベントに当選して伊坂さんと阿部さんのサインを貰えたことを思い出した。たぶん私は伊坂さんの小説が一生好きだろうと改めて思った。

4. 東北旅行2日目(立石寺、東根市、蔵王)

まずは宝珠山立石寺へ。松尾芭蕉が『閑かさや岩にしみ入る蝉の声』を詠んだと言われているお寺。石段を1000段以上登り、朝イチから汗だくだくになった。天気が良すぎてつらい。しかしその甲斐あって良い景色をみることができた。確かにここに来たくなる気持ちも、ここでの思い出を俳句として残しておきたくなる気持ちもわからなくもない。このあとは多分省くが、今回の旅行で訪れた場所の中で、1日1個は松尾芭蕉の訪れた場所があった。意図せずに奥の細道をたどる旅になっていたらしい。

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("岩"、思っていたよりもデカい)

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その後は少し遠回りをし、東根市へ。山形といえばさくらんぼのイメージだったが、昨晩知り合いが東根で桃の遊撃農家をやっていることを思い出し、桃を買うため市内で一番大きそうなJAへ。10個500円とかで売られていた。旅はまだまだ続くので箱買いはできなかったが、2種類の桃を購入。帰宅してから食べた。美味しかった〜〜

そして蔵王へ。ここは昨晩遅くまで読みふけった伊坂幸太郎・阿部和重の共著である『キャプテンサンダーボルト』で、物語の中心とも言える場所として描かれている。火山湖である御釜に向かう「蔵王エコーライン」も作中で登場人物たちがなんども通っており、弟に言って運転を交代してもらった。

辿り着いた蔵王は、まさに私が思い描いていた通りの荒涼として神秘的な場所だった。ネタバレになるのであまり詳しくは書けないが、五色に光る美しい沼にも、感染症の発症源とされる死の沼にも、国家を揺るがす大事件が起きる場所にも見えた。地下施設への入り口はどこにあったのだろう。

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単行本は、表紙のカバーを取ると御釜の写真が印刷されているので、本を片手に一番アングルが似ているところ、うまく繋げて撮れるところを求め2時間近くうろついた。こういうのに文句言わず付き合ってくれるのが弟のいいところである。私の中で物語と現実の境界がほどよく滲んでいった。めちゃくちゃ素敵なところだった。あと寒かった!!!

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レストハウスで玉こんにゃくやずんだ餅を買って食べ、仙台市内へ。エコーラインの下りがひたすらグネグネの山道で、ブレーキ全く踏んでなくても60kmくらいまで出ちゃうしブレーキの踏み加減とかハンドル切るタイミングをグチグチ文句言われるし、すごく疲れた。山道の運転は楽しいけど、上りがいいわ。

ホテルに着いた後は、仙台城址へ行って伊達政宗像を眺める予定だったが、体を動かしすぎたせいで気力が湧かず、諦めてしまった。悔しい... 夜ご飯は弟の希望で近くのラーメン屋さんへ行った。東北大生の行きつけのようで、周りは全員大学生だった。『砂漠』だ〜〜と勝手に興奮した。

5. 東北旅行3日目(松島、石巻)

仙台を出て、松島へ。あいにくの曇りで景色がめちゃくちゃ良い訳でもなかったのが残念。伊坂さんが学生時代に訪れ「え、だから何なの?」と思ったという(エッセイ集『3652』より)、島がいっぱいあるところ、といった程度の事前知識しかなかったのだが、予想の10倍以上の島の数だった。結局何個なんだろうと思いWikipediaで調べてみると、

松島の島々はしばしば「八百八島」と形容されるが、島々の数については正確に把握されておらず、古くから文献によって様々に書き記されてきた。江戸時代に大淀三千風が松島を広く紹介するために編纂した『松島眺望集』では92、仙台藩が編纂した地誌『封内風土記』では87、1910年(明治43年)の『松島公園経営概要』では240余、1981年(昭和56年)の『県立自然公園松島学術調査報告書』では230の島々があるとされ、また松島湾を管轄する第二管区海上保安本部は島の数を128と把握しているという。このように島々の数が不確定だったために昭和40年代頃に調査が行われ、260余りという数が松島の統一見解とされて、これが各機関に通達された。『松島町史(通史編2)』(1991年)ではこの島々の数の問題について触れ、国土地理院地図などを参考に、松島湾内の島々で名称のあるものが144、無名の島々が98あると記している。ただし、この数には、埋め立てられたり、地震や自然の崩落によって島とは言えなくなったものがいくつか含まれている。これに加えて、岩礁を島の数として含めた場合、松島湾の島の数は約300になるだろうとも付け足している。

と書かれていた。いや結局「約」なのかよ、と突っ込んでしまったが、何でもデジタルで数字をパッと出す世の中で、いまだに島の数が「約」なのはなんか面白いかもしれない。

遊覧船に乗って松島を一周した。それぞれの島に名前が付いており、紹介しながらの遊覧だったが、「カメ島」のネーミングがイマイチだと思った。(写真1枚目左)私なら写真2枚目の方をカメ島って名付けるけどなあ。

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あとは「松島」で検索するとよく出てくるこの島、自然にこの形が生まれるなんて、これは確かに日本三景だわ、と思っていたところ、保持するために人の手が入っているとのアナウンスが。一気に興味がなくなってしまった。

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文句を言いながらも1時間ほどの遊覧船を楽しみ、陸に戻って昼ごはん。焼き牡蠣を食べた。牡蠣は昔同期で鍋パーティーに入っていたものを食べたのが初めてで(「これで牡蠣を食べた気にならないで欲しい」と言われたが)、焼き牡蠣は初めてだった。恐る恐る食べたが、美味しかった!冬が旬だからこの時期はあまり良くないらしいが、それでも美味しく食べられたので、実は私は牡蠣が好きなのかもしれない。今度は旬の時期に訪れたい。

午後からは、大学を休学して石巻で働き、そのまま就職する予定の学科の先輩と合流。オンラインでは顔を合わせていたが、直接会うのはすごく久しぶりだった。ヒョロヒョロしている印象だったが、毎日のサーフィンで日焼けし、全身から”現地の人”感を漂わせていた。まずは震災の日、多くの人が避難した日和山神社へ。9年前、小学校から帰ってきて呆然とテレビで見ていたのと同じ構図の景色だった。

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震災前はこの辺りは全て市街地だった。甚大な被害を受けた沿岸部や川沿いは、補助金が入ることもあり、巨大な商業施設や水産加工工場が建てられていったが、人手不足や不漁の影響を受け、大きすぎるが故に次々と潰れていっているらしい。

山の上から「次はあの辺目指して走ろう」と次の行き先を決める先輩。私は行き当たりばったりの旅がしたいと言いつつも、結局ガチガチに予定を決め、ルート検索無しには動けないタイプの人間なので、何だか眩しかった。まあ一方で「やべ、今のところ右だったわ」みたいな道間違いを2日間で軽く10回はやらかしていたけれど。

そして次にやってきたのが、漁港。本当は漁師さんのところへ行くことを計画しようとしてくれたみたいだが、コロナの影響もありそうもいかず。また落ち着いたら仲良しの漁師さんと会ってほしいと言ってくれたので、状況がよくなったら訪れたい。色々な種類の船を眺めながら、先輩が今までに同行したことのある漁の話を聞かせてもらった。私が小さい頃あまり魚が得意ではなかったこともあり、我が家は漁業にも海にも縁遠いので、全く違う世界が垣間見れてとても楽しかった。

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漁港を見た後は、海へ。海水浴しにきている人も少しいた。奥に見えるのは牡鹿半島。

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そしてまた「あの黒い船見える?あそこ行こう!」と言って向かったのが、サン・ファン・バウティスタ号というガレオン船が展示されている場所。伊達政宗の命令で150人ほどを乗せてスペインへ向かった船らしい。そういえば支倉常長という名前を歴史で習ったような気がしなくもない。先輩によると、サン・ファン・バウティスタ号の浮かぶドックは湾と切り離されているので、震災の時の海水がそのまま残ってしまっている。老朽化から一旦解体して小さくし、長期保存を目指す計画があるらしいが、この海水をどうするかが問題になっているらしい。現地民だからこその情報で、ただ見るだけではない旅ができるの、ありがたい。

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先輩の同僚で、同じく大学院を休学して石巻に来ている方と合流し、山の方にある追分温泉へ。しかし出発した時点で既に宿に向かうべき時間から大幅に遅れており、宿から電話がかかってきてしまう。先輩の同僚の方の荒々しくも見事な運転()で何とかデッドラインには間に合ったが、対向車が来ないことを信じ切ったあまりのスピード感とカーブでかかるGに、どんな絶叫マシンよりも興奮した。バンジーの比ではないこの夏最大のスリルを味わった。

宿は、小学校を改築して作られたという温かみのある木造建築で、雰囲気がものすごくよかった。夕飯はめちゃくちゃ豪華。魚の刺身や海老、天ぷら、鯨の竜田揚げ、ほやの酢漬け、刺身、ホタテのバター焼き、茶碗蒸し、つぶ貝の刺身、炊き込みご飯、その他私のバカ舌では一体何なのかわからなかった美味しい小鉢たち...品数が多すぎて、一口食べるたびに次に何を手に取るかで数秒迷った。どれもめちゃくちゃ美味しくて、お腹いっぱいになった。

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お風呂に入り、先輩たちは相撲をしてフロントから怒られ、怒られていない私が許可を取りに行って花火。合宿がなくなったので今年の初花火だった。打ち上げるタイプのやつは、音が大きすぎたのと、周りの木に火花が飛び散って燃えないかでヒヤヒヤした。ものすごく夏。満喫した。もうやり残したことないんじゃないか。

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6. 東北旅行4日目(石巻、女川、仙台)

朝ごはんは秋刀魚。美味しかった!

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宿を出て、大川小学校へ。

津波により、当時学校にいた生徒74名のうち70名、教員11名のうち10名が亡くなった。地震後に校庭へ生徒を集め、どこに避難するかで教員や区長の意見が対立した。裏山へ自主的に逃げた生徒は危ないと連れ戻された。50分近く議論した末、結局小学校自体が避難所になっており、逃げてきた高齢者もいたことから、裏山ではなく少し小高い橋のたもとへ逃げることを決定した。しかしその時既に津波到達の1分前であり、避難しようと県道へ出た瞬間、津波に飲み込まれた。学校の管理下にある子どもが犠牲になった事件・事故としては戦後最悪の惨事となった。

以上のようなことを知識として知ってはいたが、実際に震災遺構として残されている大川小学校を目にしてショックだったのは、避難候補とされていた裏山との近さだった。本当に目と鼻の先というか、校舎からは数十m、一番近い場所(体育館?)からは10mもなかったんじゃないか。これほど近くに逃げられる場所があったのに、どうして逃げなかったのか、逃げようとした生徒が連れ戻されたのか。結果論でしかないので完全に部外者の私が何かいうことはできないが、ただ訪れただけでも遣る瀬無さが残った。

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その後牡鹿半島へ向かおうということになり、女川町へ。女川町は人口の10%弱を津波で失い、建造物の被災率は被災地最大の85%に上った。港の脇には鉄筋コンクリートが基礎部分の杭からなぎ倒された「旧女川交番」が震災遺構として残されており、周りの説明の中にあった「還暦以上は口を出さず」という言葉に感動した。これが言えるのも、実行できるのもすごい。

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実際、住宅地は高台に移され、低地には商業施設を集中させる街づくりが行われており、港沿いの商業施設はコロナ禍でありながらも駐車場がほぼ満車になるほど賑わっていた。魚屋さんに売られていたサメ。小魚食べたまま。すごい。

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そして次は、捕鯨で有名な鮎川へ。昨日ご飯の時に聞いたんだけど、日本の大きな水産会社はその多くが捕鯨を前身にもつらしい。捕鯨を巡る様々な問題について正直ほとんど考えたことなかったけど、先輩の同僚の方は「最終的にはもうどうしようもなく文化の違いだから、わかりあうのは無理だと思う」と話していた。そうなのか。

今は使われていない捕鯨船。

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鮎川へ向かうときや、石巻市内を走っていてすごく感じたのが、沿岸部はどこも工事中であるということ。おそらく資金や計画変更など、様々な問題で、年単位で工事が止まってしまっているのだろうと感じる場所が何箇所もあった。震災から間も無く10年が経つ。当時テレビで見ていたあの悲惨な光景からは考えられないほど復興は進んでいるけれど、それでもまだ全然足りていないんだろうと思った。現地に来なければ気付けなかったと思う。来てよかった。

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仙台で本を買うという先輩を車に乗せたまま、市場でお土産を買って石巻を後にした。充実した2日間だった。卒論が終わった頃、ぜひまた訪れたい。旬の牡蠣も食べたいし。

仙台の丸善では伊坂さんの『仙台ぐらし』文庫版を購入した。家に帰ればあるけど。でもどうしても表紙と同じ光景で写真が撮りたかったのだ。

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自分の本を買っていたはずの先輩が、会計を終えて袋から「はい、これ俺が好きなやつ。逸脱への第一歩(笑)」と言って弟に沢木耕太郎の文庫本を渡してくれたのが、ものすごく素敵だった。帰りのバスで読みます、と弟もめちゃくちゃ嬉しそうに受け取っており、こういう、エピソードと共に手にした本はその人にずっと残るだろうと思った。弟が読み終えたら私も借りて読みたい。

さらに最後にずんだシェイクも奢ってもらい、先輩は電車で石巻へ帰っていった。本当にお世話になったので、大量の崎陽軒の焼売を送ろうと思う。

そして最後にもう1つ面白いことが。ずんだシェイクを飲み終わり、ゴミを捨てようと歩いていると、めちゃくちゃガン見してくる女の子が1人。視線を受けてこちらも相手を見返すと、ものすごく部活の元後輩に似ている。しかしここは東京から数百キロ離れた仙台駅であり、相手はマスクをしているから目しか判断材料がない。流石に他人の空似だろうなあと思いスルーしてしまったのだが、やはり気になって帰りのバスでLINEをしてみるとまさかの本人。赤の他人だったとしても恥ずかしいのは一瞬なのだから、気になったんなら声かければよかったと後悔した。東北で知り合いにすれ違うなんて、日本、狭すぎない???
2年前の冬に新潟県の小さな駅の小さな居酒屋で、隣に座っていたおじさんと会話が盛り上がり、最寄り駅が一緒だと判明した時も驚いたが、それに匹敵するオモシロ旅先エンカウントだった。私はなぜか、こういうのが多い。

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今回こうして出かけようとするにあたり、考えざるを得なかったのが、「このような状況下で関東に住む自分が地方に出かけてもよいのか」ということである。親が医療関係者ということもあり、私たちが万が一感染したら/させてしまったら、ものすごく多くの人たちに迷惑がかかる。そのような葛藤と冒頭で述べた「最後の夏」症候群を天秤にかけた結果、私は出かけることを選択した訳だが、結果として間違っていなかったのではないかと思った。混んでいるような場所はできるだけ避けたこともあり、東北旅行の4日間で2m以内に近付いた人間の数は、弟など一緒に行動した人を含めても、最寄駅へ夕飯の買い物に行く時に近付く人間の数よりも少ないだろう。車内以外ではずっとマスクをしていたし、手指の消毒用アルコールも常に持ち歩いていた。きちんと感染しない/させないように気を配り、観光地側の感染予防をきちんと守れば、爆発的な感染拡大を招くことなく、国内観光を楽しむことができるのではないかと思った。なんかGOTOの回し者みたいになってしまったが、私は単に楽しい夏休みを自慢したいだけである。

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