【恥】と【罪】 日米文化の特質より
昨日から、喉が痛くて、今日は自宅で本を読んでいます。
自分にとって大切な軸をもつって簡単なようで、なかなか難しいなと感じる今日です。
自分のこれからのためにまずは”今”から逃げずやれることやろうと思います。
さて、個人的な話はおいておいて、
今回は日米文化の特質(2014年 松本青也さん著)より、
【恥】と【罪】についてです。
ここでは、日本人の【恥】の文化について話しています。
『恥ずかしい【恥】』ことや『悪いことをした【罪】』の意識は日本人にもアメリカ人にもあるが、身内の集団を常に意識する日本人は小さいころから「恥ずかしいわねえ」や「恥ずかしくないの?」と言われ続け、【罪】よりも【恥】の意識が行動の主な基準になっているという。
集団の中で、他の人たちと違って、自分だけ変わっていたりすることが明るみにでることが【恥】と考え、恥をかいてしまうと、世間に顔向けできない、人に合わせる顔がないと感じる気持ちが強い。
ここでの例は、悪事がばれて(近年では賄賂、不倫など?)記者会見に臨んだ人が、
『世間をお騒がせして…』
『皆様にご迷惑やご心配をおかけして…』
などと、しきりに「世間」や「皆様」と口にするとのことだが、
これは【罪】を犯したことに対する謝罪よりも世間も皆にばれて、【恥】をかいてしまったこと、および自分の属する身近な集団の【恥】になってしまったことに対する申し訳なさの表れだという。
実際は、メディアが商売のために大きく取り上げ、当人と当人の属する小さな集団以外は誰も迷惑することなく、心配もしていない。
一方、米国では、犯罪者の親がテレビに堂々と出て、インタビューに答える。罪を犯したのは、本人であって、それは親である自分の罪でもなければ、責任でも恥でもない。大統領を含めて、有名人の息子や娘が罪を犯しても親は何のコメントもしないというのが普通だという。
これは、キリスト教精神を背景にしたアメリカ文化では、【恥】ではなく、【罪】が行動を判断する基準となっている。道徳と宗教が表裏一体であり、
周囲の人に対してよりも絶対者である、神に反逆する行為や態度に罪なのである。
自分と神との関係は、他人には関係のないプライバシーであり、罪を犯したかどうかも、良心に照らして自分が決めることであるという考え方によるものだ。
これは、この章の、日本人の集団志向と米国の個人志向についての章での具体例であるが、日本人の行動の判断基準が集団に依存しているという点だ。
現在のコロナ禍についても、自分の意志、判断というよりのより大きな集団の意志によるものが大きいように思う。
しかし、日本人が皆そうなのかといえば、それは違う。
自分は幼いころから、武道(剣道、居合道)を習ってきたが、
相手と呼吸を合わせる、という教えはあったが、
判断を集団の声に合わせなさいという教えはなかった。
刀を腰に差した武士は、集団の声よりも、自分が人として【恥】ずかしいことをしていないか、が重要な判断基準だったように思う。
それゆえ、自分の意志に沿ってけじめをつける『切腹』というような文化もあった。
現代を生きる、自分にとって、切腹はしないまでも、しっかり自分に【恥】の意識をもって、日々暮らして生きたいと思う。
少しまた脱線した気が…
自分もそこまで、堅い人ではない気がするが、日々心にとめておきたいことだなって思います。
最後まで、読んでいただき、ありがとうございます。