厭な直感―ハイブリッド戦争下の「ロシアの忠臣」

紛争が紛争を呼び、新たな憎しみを生む。そして、俺達の生態圏は拡大していく

『メタルギアソリッド』

 先日、TL上に流れてきた、「元カゲキ派の霊夢」の動画、『【ゆっくり解説】ロシアは何を考えているのか?』(url: https://youtu.be/qdkrPTDtjso?si=8S5xUwReOOphdHLD) を観た。
 その動画では、ロシアが歴史的な経緯故にかなり意図的に中枢(モスクワとサンクトペテルブルグ)の繁栄と永続の為に、周辺を差別し苛烈に搾取し、常にその周辺を求め続け、ユーラシア大陸全域の覇権を求める「帝国」として振る舞っている事が語られていた。そしてその理論は、その帝国のイデオロギー故にロシアは現代では考えられない位に継戦能力が高く、国民全体に平等や自由を保障しようとする西側の国民国家は根負けしてしまうかも知れないと言う悲観的だが否定しきれない予想に続く。
 その予想に対する結論を態々ここで書く事は(安易な納得はしかねるので)しないが、この動画で示されたロシアと西側―あるいは近代国家の対立と対照性が現れた事件に心当たりがあり、嫌な感覚を覚えた。

 平時でありながら他国に多大な被害を与える政策や経済活動等を「ハイブリッド戦争」(ハイブリッド戦争に於いては廣瀬陽子の以下の動画が詳しい―『ロシアのハイブリッド戦争とウクライナ問題「資本市場を考える会」』 (url: https://youtu.be/azV4TCP5SuY?si=OVnLNYRElMY1zo4U)) と呼ぶのだが、 
ロシアやベラルーシはその一環として「難民の武器化」を行って、EUに圧力を掛けているとの指摘がされている。
 詰り、シリアやアフガンと言った政情不安定の地域から難民をかき集め、それをポーランドなどの近隣諸国に追いやると言った行為をその国の資源の浪費や世論の分断などを目論んで行っている可能性があるとの報告がある。
 EU加盟国のような西側諸国は、人権を貴び、危機から逃れた人間を保護する事を責務としているが、それには人口の急増や文化間の衝突、資源の消耗などの代償が付き物だ。勿論それらの国はそれをある程度認めた上で対策を立てて難民の保護を行うのだが、「武器化された難民の波」は恰も洪水のように、キャパシティオーバーを起こさせその国を政情不安に導くとの懸念があるのである。
 ロシアはゲラシモフ・ドクトリンによりその「ハイブリッド戦争」をあの手この手で展開しているのだが、こと「難民の武器化」に於いては特に注目に値するように思う。何故ならその非人道性も勿論だが、その作戦には大量の難民を輩出する、そしてある程度ロシアに近しい国の存在が不可欠だからだ。前述したようにロシア・ベラルーシが武器として用いた難民の出身国の中にはシリアが含まれる。シリアのアサド大統領はプーチンと昵懇の中であり、アラブの春以降、弾圧と虐殺を繰り広げる独裁者だ。シリア難民は彼とその友人のプーチンの落した爆弾や垂れ流した毒ガスにより作られたと言っても過言ではなかろう。ここで、冒頭の元カゲキ派の霊夢の動画に対する説明で述べた「周辺」の概念が生きてくる。詰り、プーチンがシリアを「武器化できる難民」の産地として考えていると言った見方がここでも出来るからだ。
 然し、ここで忘れてはいけないのは、シリアを周辺とするプーチンの野望に白紙委任を与えたようなアサドの態度だ。私には彼に自国民を虐殺し、流浪させる事に何も抵抗が無いように思える。だが、普通に考えれば自国民を流浪させるなんて事は恥ではないか。日本では、より高給の仕事を求め学者が海外に行く事でさえ由々しき問題だと捉えられている節がある。然し、アサドはより卑劣な爆弾や銃弾でそれを行っているのに、恥じる事を知らないかのようだ。難民の武器化には当たらない例だと思うが、最近政情不安より多くの難民がアメリカに押し寄せたベネズエラのマドゥロもそのような、自国を政情不安にして難民を出してしまう事を恥とも思わない神経をしている様な気がしてならない。私が感じた嫌な感覚は、正しくここから来ている。このプーチンや反米と言う空疎なイデオロギーの為に自らを信任した国民さえ平気で差し出すと言った一般的な王道の理屈や、国家論からすれば余りにも狂った感覚が、その差異ゆえに不気味に映るのもそうだし、ロシアと言う帝国の野望を支えるほどには強固であると言う事実が、改めて人間に根差す野蛮や残忍さの強さや、それとの闘いの長さ、熾烈さ、不愉快さを暗示しているように感じられてならないからだ。

 詰まり、ロシアが辺境として求め、それに簡単に応じてしまうような国の元首は、人命や国民の満足などの責務の点に於て、西側国家と根本的に異なる理解をしている様な気がしてならないのである。そして、そのような違いが元カゲキ派の霊夢の言う「帝国」と「国民国家」の違いなのかもしれない。
 ならば、ロシアとその「周辺」との闘いは単なる武力闘争ではないように思える。彼らが(如何に受け入れがたくても、狂っていても)ある種のイデオロギーを元に我々よりはるかに根気強く長丁場に備えているならば、我々はそれに対する新たな備えが必要だ。そしてそのような備えを続けるには、本来ならば為政者として備えるべき徳目を持たず、寧ろその不徳で以てプーチンに媚びへつらっているアサド(やマドゥロ)、彼等と昵懇のプーチンが如何に恥ずかしい存在かと言う感覚を理論化し、それに基づいた哲学を築く必要があるように私は思う(その際わたしは、厳しいキャパシティを認識しながらも武器に使われたような人間への思いやり等を持つべきだとも思う)。冷戦以降、ロシアが「帝国」観と戦略を産み出したように、今度は我々がそのような信念を作るべきなのだろう―或いはなし崩し的に「国民国家」の概念を享受し、それを磨く事を忘れてしまった我々が。

子、政を為すに、焉んぞ殺すを用いん

『論語』顔淵第十二の十九

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