彗星の尾っぽ たったの一歩
この物語はフィクションです。
2020年7月。
謎の旅行会社「ネオワイズ」が、一瞬どころか半日ほど耳を疑うツアーを企画した。
「彗星の尾っぽにつかまって旅に出よう」
宇宙空間で呼吸ができるのか?
振り落とされたりしないのか?
途中で宇宙人に襲撃されないのか?
すべての疑念は、この澄んだ歌声に吹き飛ばされた。
ツアーのテーマソング「彗星の尾っぽにつかまって」。
沈んだ心に触れないで、見えない力ですくい取ってくれるような響き。調べ。
彗星の尾っぽにつかまれば、あらゆる現実の壁を突き抜けた世界に行けるかもしれない。
申し込みサイトで、確定ボタンをタップした。
しかし、私は彗星のことをよく知らない。「彗星」と「流星」の違いすらわかっていないのだ。
ドライブの前に道順を下調べするのと同様、彗星についても予習が必要だろう。
手始めに、質問投稿サイト「ヤホー!知恵袋」に投稿してみた。
彗星と流星って同じですか?違うものですか?
2分で回答が来た。
全然違います!今川焼きと大判焼きぐらい違います!
それ、同じじゃないか。
匿名の意見はアテにできないので、文献にあたってみた。
参考文献一覧
[1] 大彗星、現る。 (吉田 誠一 渡部 潤一、2013年 KKベストセラーズ発行)
[2] 彗星探検 (縣 秀彦、2013年 二見書房発行)
[3] いちばんわかりやすい彗星のひみつ (縣 秀彦、2013年 幻冬舎エデュケーション発行)
[4] 彗星大接近 彗星はどこからやってくる? (藤井 旭、2002年 偕成社発行)
[5] ここまでわかった!太陽系のなぞ (沼澤茂美 脇屋奈々代、2014年 誠文堂新光社発行)
これ以降、参考にした箇所に[1]、[2]といった番号で付記します。
まず、彗星の運動について。
太陽が、その重力でつなぎとめている天体群、あるいは天体が存在する範囲を「太陽系」と呼ぶ。[1] p.10
属するのは、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星の8つの惑星。
月などの衛星や、火星と木星の間でただよう小惑星。
そして、太陽の周りを細長い楕円軌道で周回するのが、彗星である。
([2]を参考に筆者作成)
太陽の周りを一回公転する周期が200年以下だと「短周期彗星」、それ以上だと「長周期彗星」と言われる。
ただし、太陽に一度近づいたきり帰ってこない彗星もあり、それは「非周期彗星」と呼ばれる。[3] p.49
長周期彗星の場合、全体の軌道はこうなっている。
([3]を参考に筆者作成)
地球からはるか遠く、太陽と地球の距離の一万倍も遠いところに存在する「オールトの雲」。
彗星の卵が集まっている場所であり、ここから地球のそばまで飛来する天体が彗星である。
いわば彗星旅行とは、天の果てまで広がる雄大なJR山手線、あるいはJR大阪環状線に乗るようなものなのだ。
さてお次はと、彗星の「尾っぽ」について調べてみたら、二度も驚くことになった。
([4]を参考に筆者作成)
彗星には「核」があり、水や二酸化炭素などが凍ってできた氷と、砂粒が含まれている。
その「核」が、太陽から放出される素粒子の風「太陽風」にあぶられて、二種類の尾が伸びる。
氷が吹き飛ばされてできるのが「イオンの尾」、砂粒が吹き飛ばされて伸びるのが「ダストの尾」だ。
そしてどちらの尾も、太陽の反対側に伸びている。彗星の進行方向とは直角なのだ。これがひとつめの驚きだった。
つまり「彗星の尾っぽにつかまる」とは、こういう体勢である。
尾っぽにまっすぐ引っ張られるかっこうをイメージしていたが、どうやら高速で移動する鉄棒にぶら下がる感じになりそうだ。
思ってたのとちょっと違うけど、おもしろいからいいや。
ちなみに「流星」とは、彗星がまき散らしたダストが地球大気に突入して、大気を光らせる現象である。[2] p.15
彗星の軌道上には、まき散らされたダストが集まっている場所があり、それを「ダストトレイル」と呼ぶ。
公転する地球がダストトレイルにぶつかると、大量のダストが大気に突っ込んで光り輝く。これが流星群だ。
彗星と流星、やっぱり全然違うじゃないか。ヤホー!知恵袋にだまされるところだった。
ちょうどここまで調べたとき、旅行会社ネオワイズからメールが来た。
現在、地球付近に「ネオワイズ彗星」が飛来しています。
私たちの力で、彗星を夜の空港に導きます。
どうぞ、彗星の尾っぽにつかまって、広大な宇宙の旅をお楽しみください。
一企業がどんな力を持っているんだ。
彗星は、太陽系の中を公転する天体だから、オリオン座やさそり座などの星座の世界までたどり着くことはできない。
だけど十分だ。
惑星に会う。闇に溶け込む。光を浴びる。
すべての日常を置き去りにした世界が、そこにある。
こうして私は、出発の日を心待ちにすることとなった。
もうひとつの驚きを知らないままに。
案内メールに従い、たどり着いた真夜中の空港。
灯りもない。
係員さんの顔もよく見えない。
「お待ちしておりました。料金を現金、またはSuicaでお支払いください」
え、Suica使えるの?
「JR東日本と提携して、キャッシュレスに対応しました」
Suica覇権握りすぎだろ。
JRの影響力におののいていると、そのときがやってきた。
「来ました。おつかまりください」
眼も開けていられないほど、まばゆい物体がすべり込んできた。光り輝く尾っぽに身体が飲み込まれる。
彗星だ。
想像していた通りのポーズで、光の束にしがみつく。
「それでは、出発いたします」
駅の発車ベルのように電子音アレンジされた「彗星の尾っぽにつかまって」が流れ、ぐんぐん速度を上げていく彗星。眼下に見える高層ビル群、富士山、入道雲、人工衛星。
ネオワイズ彗星の尾っぽに、つかまった。
星々に覆われた空間を、何日飛んでいただろうか。
何処からともなく聞こえる、観光ガイドのようなアナウンス。
「まもなく、火星軌道を通過します。
火星表面は地球の砂漠と似たような景色で、風速4~5mぐらいの風が吹いています。
地質は場所によって大きく異なります。赤道近くの土は強い酸性で、人間の皮膚を溶かす可能性があります。
一方、北極近くの土はアルカリ性が強く、アスパラガスのような野菜を栽培できると考えられています。 [5] p.56」
アスパラガスか、嫌いじゃないな。
続く英語のアナウンスをよそに、身近な情報が出てきた嬉しさにひたっていた。
だが次の瞬間、全くの予想外だった、第二の驚きが襲いかかる。
…なんか、彗星の尾っぽ、短くなってないか?
明らかにどんどん薄くなって、消えかかっている…
ちょっと、尾っぽ!消えそうなんだけど?つかめなくなるよこれじゃ!
「はい、彗星の尾っぽは火星軌道付近で消滅します」
え
「太陽風を受けて伸びるのが彗星の尾っぽなので、太陽に近い時だけ尾っぽができます。火星軌道あたりが限界です。([3] p.36)」
そ、そんな!
Q.彗星の尾っぽにつかまって どこまで行けるだろう
A.火星まで
おい、思ってたよりずっと近いぞ。
彗星の軌道をJR山手線、地球を渋谷駅だとすると、火星は駅のホームを出発してから90cmの地点である。一歩歩いたら終わりじゃないか!
こんなの重要説明事項だろ、なんでサプライズみたいに後出しするんだよ!
「お客様、どうかされましたか?」
どうもこうも…え?
彗星の核からひょっこり顔を出したのは…
Suicaのペンギン!
「こんにちは、Suicaのペンギンです!このたび、彗星旅行のキャラクターに就任しました」
地球上の交通機関のみならず、宇宙にまで…
「副業です」
副業のスケールでか過ぎだろ。
いや、そんなことより、尾っぽ消えそうなんだけど?このままじゃ宇宙空間に放り出されるんだけど?
「ご安心ください、スペアがあります」
何だよスペアって。タイヤみたいに言うなよ。
「私の尾っぽにつかまってください!」
え、ペンギンさんの?
短すぎないか。手が滑らないか。
しかし頼れるものはこれしか無さそうだ、背に腹は代えられない!
がしっ!
「痛ででででででででででででで!!!」
いや痛いんかい!
人生最大のツッコミとともに思わず手を放してしまったのは、何日前だっただろうか。
私は今、どこを漂っているんだろうか。
どこだっていいよ。
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広沢さんの音楽にインスピレーションを受け、自由に創作してください。
「自由」の二文字に無限の信頼を寄せて参加します。
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