そうしていつか全ては優しさの中に消えてゆくんだね
子どもの頃、家族で旅行とか、夏休みにおばあちゃん家に泊まりに行ったとか、そういうのがすごく羨ましかった。
両親は酪農家で、1日たりとも家を留守にすることはできなかったし、母の実家は隣町ですぐだし、父方の祖父母と同居だったから、長期休みには従兄弟をはじめ親戚が我が家で過ごすのが定番だった。
おまけに父の従姉妹にあたるお姉さんが冬休みになるとやってきて、やりたくもないカルタを延々やらされた。少し年上だからってちょっと威張っていて、だけど毎冬やってきてしばらく泊まっていくそのお姉さんは腕に小児麻痺が残り、左腕の肘から下が曲がって動かなかった。お姉さんの父親、祖父の弟にあたる人は戦争で片足を失い、義足だった。そんな様子から何か事情があるのだろうなと子どもながらに思い、あまり強いことは言えなかった。だけどなんとなく居心地が悪かった。
歳の近い従兄弟たちとあそぶのは楽しかったけど、従兄弟たちは兄と遊ぶ方が楽しかったようで、女の私は時々除け者にされたり、疎まられてりしてそんなのもちょっとやきもちが焼けた。
何より親戚たちが来ると、私の居場所が追いやられ、寝る場所が仏壇の近くになったりした。それが本当に怖くて嫌だった。
嫌だったけど、誰にも嫌だとは言わなかった気がする。
祖母はすごく可愛がってくれたけど、父は自分の姉妹が大好きな人だったし、母は自分のことが精一杯でそんなことは全く気が付かない人だったし、知らず知らずに我慢していたことも多かった。
私は言いたいことははっきり言っているようでいて、「これを言ってもどうしようもないこと」は飲み込んでいた気がする。そこに気がつく祖母から「どうしたん?」と声をかけられても、祖母に心配をかけたくなくてやっぱり「大丈夫」と言っては飲み込んでいた。
本人は飲み込んでいたつもりでも、飲み込みきれずにあちこち違う形で吐き出してきつくあたったり、八つ当たりのような形になったこともあったろうと思う。
あの時の所在ない気持ちや、居心地の悪さや、羨ましさ、妬ましさ、疎外感などから解放されたくて、忘れようとしてみたり、蓋をしてみたり、人に優しくしてみたり、いろいろ試してみたりした。もう大丈夫と思っていたのに、今思い返すとやっぱりチリチリと胸が痛み、ほろ苦ーい気持ちになる。
そんな自分にまだ大人になりきれていないのかとがっかりしたけど、もういいや。
だって全ては愛ゆえにだもの。
家族旅行に行きたかったのも家族で仲良くしたかったからだし、冬休みに来るお姉さんや従兄弟たちにもう来ないでと言えなかったのも楽しいこともあったからだし、祖母に強がっちゃうのも心配かけたくないからだし、全ては愛ゆえにだから。
そんな気持ちが優しさの核になるのだろうから。
そしていつかそんな核も溶けて消えて、優しさだけが残るから。
愛はチクッとして、チリチリして、ほろ苦くって、そんなところから生まれてくるのかもしれない。いや、そんな気持ちを存分に味わって、まずは自己を愛するところから始まるのだろう。
全ては愛ゆえに。
オザケンは偉大で、流星ビバップはステキで、三谷流にした三谷幸喜は天晴れなのである。
全ては愛ゆえに。
↓ちなみにオリジナルはこちら。これを聴くと大泉洋が「すげー」と思わず言ってしまったのもうなづける。
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