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【短編小説】それぞれの荒野(1万字程度)

 とある駅前広場の一角で、耳をつんざく凄まじい叫び声が響き渡っている。

 たまたま近くを通りかかった人々は、すわ何事かと足を止め、自分が凄惨な事件現場に居合わせてしまったのかと反射的に物音の発信源を辿るが、地べたをのたうちまわりながら手足をバタつかせる男の子の近くにひっくり返って潰れたアイスクリームが落ちているのを認めるや一様に得心をつけた苦笑を顔に浮かべ、忘れていた歩行を各々に再開してゆく。

 まるでこの世の終わりのように全力を尽くして、ある意味ではめげるということをせずびゃんびゃん泣き喚き続ける男の子の気概もさることながら、その傍らで一歩も引かずに腕を組み、仁王立ちの姿勢を崩さない母親の堅牢さといったら。もはや絵面的には微笑ましいの向こう側である。

「ちょっと、森屋さん」

 その様子をすこしばかり離れた所から眺めていたひとりの老婦人が、とうとう見兼ねて声をかけた。
「なんだか大変そうねえ」

「あら、どうもー。こんにちは」

 元気坊主の母親こと、森屋涼子は、近所の顔見知りにばったりと遭遇した奇遇に相応の表情を形成し、にこやかに会釈を返した。
「やかましくってすみません」

 しっかりと整えられた眉を困ったように寄せ上げながら、ばつが悪そうに言う彼女はしかし、周囲の注目を集めるこんな状況にも委縮しておらず、まったくもって恬然としていて胆が据わっている。
 それもそのはず、周囲の視線による圧力に耐えかねてやんちゃ盛りな息子の我が儘に屈服し、その結果、更なる増長を招くという敗走をこの母親はもうすでに幾度となく経験していた。そんなウブな時期なんぞとっくに通り越している。
 言うなれば、今ここに屹立するは歴戦を凌いで神経を太く成長させた孤高の女であり、その鉄壁ぶりに磨きをかけた母親に今日まで挑み続けている息子もまた、練度の増した牙城を突き崩さんと、親の心子知らずの方向にレベルアップを遂げているのだった。
 つまりこれは切磋琢磨しながら双方それぞれが辿り着いた境地でぶつかり合う毎度決戦的な駆け引きなのであり、通りすがりの人たちはおのずと観客にならざるを得ず、当人たちはオーディエンスに構う暇もなく、目の前にいる好敵手と向き合うことにのみただ心血を注いでいるわけである。

「もういっこおおぉ、いっこだけええぇ、買って買って買ってええぇ!」

 息子の要求を母親は頑として認めずに静観している。

「アイスッ! おれひとくちしか食べてないよおぉ!」

「いーや嘘だね。ママは見ていた。少なくとも5口は食べていた」

「うああん! でもまだ先っちょしか食べてないいいぃ」

 傍らに立つ婦人は、咄嗟に耳を塞ぎそうになるのをこらえつつ、男の子が買ってもらったアイスを食べ終わらないうちに落っことして泣き喚いているのだろうと推察した。息子の真っ赤な顔は涙やら洟やらでもうぐしゃぐしゃである。

「絶対に落っことすから座って食べなさいって注意したでしょ。それなのに龍之介が走り回って勝手に落とした。言わんこっちゃない。ママはもう知らん」

「いやあああぁぁぁ!」

 もはや断末魔の叫びである。
 奇声が耳に飛び込んでくる免疫を備えないまま近くを通りかかった新たな通行人が歩きスマホをしていた手元からビクッと顔を上げて、現実の世界に意識を呼び戻されていた。

「これまたけっこうな荷物ですね柿崎さん。私たちも帰るとこなんで、よかったら家まで一緒に運びますよ」

 この場においてもっとも強い免疫を備えている彼女には、息子の駄々こねもどこ吹く風で、そんなことを言う余裕さえあるのだ。

「まあ本当? 正直とても助かるわあ。買いすぎちゃって困ってたのよ」

「いやだあぁぁ! アイスはぁぁ!」

 母親の口にした『帰る』という言葉に敏感に反応したのだろう、龍之介が三度の癇癪を起こした。

「あんたね、いい加減にしなさいよ」

 柿崎婦人が両肩にかけていた巨大なポリエステル製のエコバッグのうち、重たげなほうをさらりと受け取りながら、母親は息子の訴えをにべもなくぴしゃりと却下する。ちなみにエコバッグの中身は、駅近にあるスーパーの北海道物産展にて買い込まれた戦利品たちである。
 この見るからに穏やかそうな年金暮らしの老婦人は、日頃こそ旦那から「ちょいとお前さんは吝嗇がすぎるぞ」としばしば揶揄されるほどの節制を生活信条としているくらいなのだが、ひとたび北海道の地物に関するフェアだの物産展だのといった催しを前にすると目の色が変わる性向があるのだった。

「龍之介くん。お婆ちゃん、美味しいお土産いっぱい買ってきたの。それをあげるから、機嫌を直そうね」

「柿崎さんそんな、申し訳ないですよ」

「いいからいいから。重い荷物を運んでもらうんだから、それくらいのお礼はさせてもらわないとこっちの気が済まないわよ」

「こんなのついでだし、別に大したことないんですけど……」

「おばあちゃん、なに買ってきたの?」

 龍之介が目を輝かせて、一筋の光明が差し込んできたかのように地べたから婦人を見上げた。

「お菓子だと……バターサンドか、生キャラメルがあるわよ」

 単語そのものに食いつくかのような真剣さで、発表を受けとめた龍之介はしかし、地面で溶け始めているアイスにちらりと目をやり、
「……っ、おれはアイスがいいぃぃの!」

「龍之介こらっ。とんでもない我儘を言うんじゃない」

 母親に一喝されたところで素直に言うことを聞くじゃじゃ馬ではない。

「イカ飯っていうのも、あるよ」

 柿崎婦人がほとんどダメもとで提案してみたところ、「イカメシ?」と 龍之介がピタッと泣くのを中断して意外にも興味を示すので、
「そう。イカ飯っていうのはねえ、こうやってイカさんの中にご飯が……」と、隣の森屋涼子が肩に下げたエコバッグの片方から現物を探り出して見せてみると、

「やだあぁぁ! アイスがいいぃぃ!」

 イカ飯を理解した途端、やはり水揚げされた魚みたいに跳ねた。

 母親はたくましくも三キロはあろうかというエコバッグを肩に下げたまま息子の脇の下から腕を回してなかば無理矢理持ち上げるように立たせるや、
「ほれ、立つ、歩く!」
 発破をかけると、柿崎婦人を促しつつ、さっさと歩き出してしまった。

「すみません。うちの子、しつこくこだわるので。気を悪くしないでください」

「気を悪くなんてしないわよう」

 数メートル歩いたところでつい気になって柿崎婦人が振り返ると、この場にしがみつく物がない代わりにTシャツの裾を掴んでベソをかきながらも、ほとんどすり足にも近いほどの重い足取りで母親を追いかけはじめていた小さな頑固者が、今まさに自分の敗北を認める現場を目撃されてしまったことがこの世でもっとも恥辱的な瞬間であるかのような苦悶を、そのまんまるとした顔のなかにしっかりと浮かべ、ふたたびピタっと立ち止まるところだった。
 そこにいたってようやく婦人は、己がたったいまベテラン同士の駆け引きに余計な水を差してしまったことを察し、いささか申し訳ない気持ちとなった。

 抱えた荷物の持ち主である老婦人にまで足を止められては、さすがに先を行くわけにもいかないと断念した母親が、すらりと後方を振り返って婦人越しの息子に声をかける。

「坊や、そこに置いてっちゃうわよ?」

「べつにいいし」

「家に帰ればチューペットがあるわよ。まあ素敵。それもきみの大好きな、ブドウ味」

「そんなのじゃイヤなんだ」

「アイスなんだから同じでしょうに」

「ぜんぜん違うよ。あっちのアイスがいいんだ……ちっちゃいのでもいいから」

「そ。意志は固いようね」

「おとこにニゴンはない!」

 涙で眼を潤ませながらも敢然とまっすぐに受けて立つその表情は、凛々しくさえあり、どこでおぼえたのかとたずねたくなるこまっしゃくれた物言いと、適切さを欠いた用法も相まって柿崎婦人を破顔せしめたが、そこは流石の母親、あらゆる物事において経験不足である彼にとって、未だ世界そのものでもある無二の存在は、彼が生まれてからこれまでに発揮したほとんどすべての愛らしさをひと通り目にしてきているわけであり、そう簡単な誤魔化しは利かず、目下躾上の対立中でなければいくらか情勢も変わろうが、今さらその程度のトリックプレーにはほころびもしない。

「じゃ、もうずーっとそこにいなさい」

「うああああぁぁぁん」

 一蹴の仕打ちに敗れた小さな戦士は、その場にしゃがみ込んで慟哭した。

「さ。行きましょう柿崎さん」

「あらまあ、ちょっと、どうしたらいいのかしら……」

 両者のあいだでおろおろと視線を泳がせていた柿崎婦人は、駅前広場にて看板を掲げる移動販売車に目を止めた。見たところ、今しがたこの親子がアイスクリームを購入した店であろう。遠くのものであればまだよく見える目でとらえた「ハーフサイズメニュー」の文字列に、妥協的な打開策の兆しをみた。

「龍之介くん、お母さんが持ってくれてる荷物、とっても重たそうねえ」

 泣きじゃくっている少年は腕の中にうずめていた顔を持ち上げると、すたすた遠ざかっていく母親の背中を見、だからなんだというのかと、馴れ馴れしく話しかけてきた老婆を不貞腐れ気味に睨んだ。

「お母さんの持っている荷物、はぶんこしてあげたらどうかしら」

 そしてすかさず声をひそめて付け足す。「そしたらご褒美に、おばあちゃんがちっちゃいアイスを買ってあげるわよ」

「おばあちゃん、ほんと!?」

「ええ本当よ」

 柿崎婦人の返事を聞き終わらぬうちに龍之介は駆けてゆく。地面を忙しなく叩くような足音の急接近に気づいた母親がすわ何事かと振り返り、
「ママ、おれも一緒ににもつ持つよ!」
 息子の唐突なお手伝い宣言に、これまた何事かと目を剥いた。

「そうしたらおばあちゃんがアイス買ってくれるんだって!」

 心理戦を展開するにはまだまだ未熟。せっかく後ろ盾してくれた婦人の面目も丸潰れの即行ネタばらしである。無論、お手伝いを進み出て褒められるつもり満々でいる当人には母親がはんにゃサマのごとく眉間をひしゃげさせながらエラい僕ちゃんを見下ろしてくる意味が分からず、またぞろベソをかく。こりゃ参った。己の額を打ったのは、あっさりと策破れし知将、柿崎婦人であった。

「ごめんなさいね、私が吹き込んだのよ」

 親子のもとに追いつきながら、開き直って笑いかける。

「でもほら、龍之介くんもやる気をだしてお手伝いしてくれるみたいだし、せっかくだからアイスくらいご馳走させてよ」

「いいえ、お土産を頂くだけでも悪いのに……」

「そんなくらいじゃこっちの気が済まないわよう。いいじゃないの、たかがアイスよ」

 森屋涼子は遠慮半分、有難迷惑半分、といった様子だ。柿崎婦人もかつて子育てをした経験があるのだから分かる。あんまり勝手に甘やかされてしまっても困るという気持ちは理解できた。

「大丈夫よ。お手伝いをさせて、その報酬として甘やかすんだから。そうゆうふうに味をしめさせることも大事よ」

 おかあさんと一緒に、おばあちゃんの荷物、運んでくれるんだもんね?

 語りかけられた龍之介は、こくんと頷いて母親を見、手を伸ばして掴んだエコバッグの生地をきゅっと握りしめた。

「おれ、お手伝いするから……」

「……ああ、もう」

 母親の声には、呆れと脱力と慈しみが綯い交ぜになった色があった。
「まあ、たしかに一理ありますね」

「やった!」

「だけどハーフサイズだからね」

「わかってるって」

「ふふ。じゃあアイスを選びにいこうか、龍之介くん」

「うん!」

「コラ。うん、じゃないでしょうが」

「ありがとう、おばあちゃん」

「よろしい」

 森屋涼子は指を揃えた両手を重ねて頭を下げた。
「どうもすみません、柿崎さん、ありがとうございます」

「いいのいいの。それ、重いでしょう。先に公園のほうで待ってて。追いかけるから」

 柿崎婦人は、すぐ向こうに見える公園を促してから、龍之介と連れ立ってアイスクリームの移動販売車へ足を向けた。考えてみれば、アイスクリーム単体でさえ手元から落っことすやんちゃ坊主である。荷物運びのお役目を果たしながらでは二次災害は必至であった。

 母親としても正直なところ、ちょいと疲れてひと息つきたい頃合いだった。

 ここは気安いご近所さんの厚意に甘えることにして、三人で休憩ができそうな、程よいベンチでも探しておこうと、彼女はさっぱりした足取りで先に進んでいくのだった。


 駅にほど近い海浜公園の、贅沢にひらけた芝生広場に面した石造りの休憩スペースにて、アーチ形のベンチに柿崎婦人と森屋親子が三人並んで腰をかけ、アイスを頬張っている。
 その様子はさながらショッピング帰りの親子三世代の姿そのものである。

「すみません、私までご馳走になってしまって」

「いいのよう。森屋さんにもお手伝いしてもらってるんだし」

 一度、せめて自分のぶんのアイスのお代くらいは払おうとした森屋涼子の食い下がりを、柿崎婦人は年の功で制した。「私が好きで勝手にやったんだから。趣味よ、こんなの」

 年寄りの断固として善意を押しつける姿勢に敵うものはそういない。

 これまでの付き合いからの経験上、実際この自律した母親は、そこまでしないと受け取らない。

 普段のさばけた物腰からは結びつきにくいが、シングルマザーとして完璧であろうとする彼女の、どことなくいつも肩に力をいれているような身上に、柿崎婦人は、一人の友人として好感を持ちつつ、ひそかな気掛かりを抱いてもいた。

 もっと気軽に支え合い、助け合い、ときおり周囲に頼ることくらい許されるものであるし、そういった持ちつ持たれつの距離感を一般的な感覚として受け入れられない人物では本来ないだろうに、この母親は、自身がシングルマザーであるという現実をことのほか重大にとらえ、べつにごく当たり前の頼り方さえも、過大な甘えと頑なに思い込んでしまう枷に囚われているように思えてならなかった。

 その懸念に発端はある。というのも柿崎婦人にとって、この親子との初対面の出来事がそもそも鮮烈だったのである。

 一昨年の師走の時期だった。
 年の瀬の買い出しに協力もしない夫のせいで指が千切れそうなほど重くなったエコバッグをぶら下げて家路を急いでいた柿崎婦人が、もうそろそろ我が家の門扉が見えはじめるというタイミングでみぞれ混じりの冷たく不快な雨を降らせはじめた仄暗い灰色の空を恨めしく見上げたとき、たまたまそれが目に留まった。

 自宅よりひと区画となりにあるマンションの2階、角の部屋のベランダ。そこでガラス戸に向かっている女性の後ろ姿があった。洗濯物でも取り込んでいるのかしらと思ったが、作業をしている様子もない。ただじっと、室内のほうに意識を注いでいるようだった。気になったのは、ひどく薄着であったこと。よく見れば自分の体を両手で抱きかかえるようにして、しきりに腕をさすっているのがわかった。ガラスに向かって息を吐きかけるような仕草をみせたかと思えば、何度か切実に戸を叩いたりしてみては、その行為が立てる音を気にして、拳を引っ込めるということを繰り返していた。

「どうかしたのかしら?」

 思い切って柿崎婦人が声をかけてみると、ベランダに立ち尽くしていた住人は呼びかけに反応して振り返った。

「ちょっと……トラブルで。閉め出されてしまいまして」

 面目なさそうに苦笑いをしてみせた森屋涼子は、普段の健常な状態であれば、彼女の女性としての魅力の一つに数えられるであろう白い肌が、悲愴的なまでに血の気を失い、紫色に変色した唇はすっかりと硬直して、かなり喋りにくそうだった。

「ちょっと、大変なことじゃない!」

 手早く事情を聞くと、洗濯物を取り込んでいたところ、室内で遊んでいた3歳の息子がベランダの窓の鍵を内側から閉めてしまったらしい。
 子供という生き物は、ある日突然に新しいことができるようになる。今回はそれが裏目に働いた。手を伸ばしてようやく届くような高さの鍵であり、今までそんなことをした経験もなかったはずなのに、普段、母親がしていた鍵の開け閉めのやり方を真似てしまったようだった。

 しかも困ったことに、鍵を閉めることはできたようだが、開けることができないらしい。それともガラスの向こうからの「鍵を開けなさい」という母親の指示が理解できないのか。彼女の息子はいずれにせよ、いま何がしかの非常事態が起こっているという雰囲気は理解しているらしく(その事態を招いたのが己であるのを自覚しているのかは定かでないが)、パニックを起こし、ガラス戸の向こうの室内で泣いているらしかった。

「どうしてもっと大きな声で助けを求めないのよ!」

 柿崎婦人は荷物の重さによる指の痛みも忘れて叫んだ。

「それだと、近所にも迷惑をかけてしまうので」

 気弱さで口にしているという感じではなかった。
 もっと淡々として、それが彼女にとって当然であるような言い方だった。

「……玄関の鍵はあいてないの?」

「たぶん、閉まってると思います」

「ちょっと待ってて。いま行くから」

「あ、いえ」

「いいから! あなた、そのままじゃ凍え死んじゃうわよ!」

 顔を上げたまま会話していたせいで、いいかげん首が痛くなってきており、あまつさえ、このすっきりしない天候。この柿崎婦人、日頃は牧歌的な物腰と長閑な性格をしており、いつぞや界隈に暮らすマダムの同胞たちと連れ立って何ゆえか千葉市動物公園にお出かけした際、水辺に尻尾を垂らして寝そべりのんびりと欠伸しているカバを指して「なんだか柿崎さんみたいねえ」と笑われても嫌味にとらえず、あら杉田さんもなかなかうまいこと言うもんだわあと納得してしまうくらいマウントの掛け甲斐がなく、鷹揚すぎるところのある人物なのだが、一度吹っ切れてしまえばもうすごい。
 それこそまさにキレたら獰猛な鰐をも簡単に返り討ちにするカバのごとし。いざというときには底に秘めたる不動の強さを発揮する貴婦人なのだった。

 火のついたカバとなった柿崎婦人はつかつかとマンションのエントランスに向かい、不幸中の幸いというべきかちょうど退屈そうに駐在していた管理人を、ベランダの見える歩道に引っ張り出してくると、ほとんどまくし立てるように事情を説明した。外から住人に了承を取って、マスターキーで玄関からお邪魔してリビングを横切り、ベランダの鍵を開けた。
 悪気なくも自分の手で母親を窮地に追い込んでおきながら窓際で泣きじゃくっていた3歳の男の子、龍之介は、突然知らないおじさんと婦人が家に上がり込んできたことよりも、母親が戻ってきたことによる安堵でいっそうに声を上げて泣いた。

「……ったくもう、このばか息子め」

 悪態をつきながらも、芯から冷え切ったはずの体で自分にむしゃぶりついてくる息子をまずちゃんと抱きしめてやる母親の姿を見ていたら、柿崎婦人の文句を言いたい気持ちも薄れてしまった。

 そんなトラブルが縁となり、もともと近所に住んでいて顔を合わせる機会も少なくない森屋涼子・龍之介の親子と柿崎婦人が打ち解けるまでにさほど時間はかからなかった。

 世間話を重ねていくうち、やがてお互いにもう少し間口を広げてもいいような雰囲気が共有されると、軽い身の上話もするようになった。森屋涼子が二年前に離婚をしており、アパレル関係の通販サイトを運営する都内の企業でウェブデザインなる仕事をこなしながら女手ひとりでまだ手のかかる息子を育てているということを知った。

 パートや工場のライン作業の経験はあるものの、基本的には専業主婦として、子育てや家事に専念する人生をひと通りこなした柿崎婦人にとっては、彼女のように自分で家計を支えながら『家族』を運営する大変さは、想像に頼るほかなく、純然たる敬意を抱いた。

「ねえ、森屋さんは再婚しようとは思わないの?」

 すでにぺろりとアイスを平らげて、芝生の中を駆けまわっている龍之介を眺めながら、母親はその老婆心からくるいささか直截すぎる質問もすんなりと受け入れて思案する。

「自分でも不思議なくらい、そんな気にならないんですよねー」

「たくましいわねえ」

「不安はありますけどねえ。今はやんちゃ坊主の相手をしているとそれだけで、手一杯というか。それに、今の生活にわりと満足もしちゃってますし」

 近隣住人に迷惑をかけてしまうからという理由で、真冬の屋外に閉め出されてなす術がなくとも声を上げなかった母親の姿。
 アイスを落として泣き喚く我が子が衆目を集めても怯まない母親の姿。
 このふたつは一見矛盾しているようで一貫している。
 つまり、他人をあてにしていないという意味で。

 たくましいわねえ。
 柿崎婦人は本心からそう口にしつつ、心の内では、
さみしいわねえとも呟いているのだった。

 もっと楽にしたらどうかしら。

 ふとした時、そう言葉をかけてやりたい気持ちに苛まれるのだが、専業主婦の経験しかない自分が口にするにはどうしても無責任だという気がしてしまって、結局、いつも口にすることができない。
 だから、さみしいのだ。

「ねえ……ママはどうして、パパとうまくいかなかったの?」

 子供の、はっとするほどの耳聡さと鋭さに、ときおり大人は面食らう。

 無我夢中に草はらでモンシロチョウを追いかけていたはずの龍之介が、トコトコとこちらのベンチに歩いてきて、ふいにそう言ったのだ。
 そこらへんで適当に毟ったらしいクローバーの葉っぱをつまらなそうに弄びながら、ちょっと不貞腐れたような顔で足元を見つめている。

「うーん……どうしてだろう。ごめんねとありがとうをちゃんと言えなかったからかな。お互いに」

「ふーん。パパはよくあやまってたけど」

 よく見ているなあ。
 母親はひそかに驚き、感心する。

「そういえば、そうかもね。パパはごめんねが言えて、ありがとうが言えない人だった。ママはありがとうより、ごめんねが言えない人だった」

「あー、そんなカンジだったかも」

「生意気なやつめ」

「そんなことでりこんしちゃったの?」

 流石にグッと言葉に詰まる母親。
 しかし核心を突いた当人にその答えを求めたつもりはないらしく、でかいバッタ!と叫ぶや身をひるがえして再び草原を自由に駆け回りだす。

「……子供ってすごいわね」

 あれこれぐちゃぐちゃ勝手に考えて言葉の選択に迷う大人の思考を容易く飛び越える。文脈など気にしない。思ったことを口にするだけ。純粋に。
 ただ真っ直ぐすぎて、たまにはっとさせられる。まさに今、会話に立ち入ることのできなかった柿崎夫人のように。

「なんか、すみません。色々と」

 森屋涼子は言って苦笑する。
 誤魔化しきれない気まずさに。いや、それだけではなく。

 反射的に自分が口にした「すみません」という言葉。別れた夫の、疎ましく感じていた部分。何かあるたびに、まず先手としてほとんど咄嗟に発動する「ごめん」という口癖。あまりにも乱発が目立ち、そのくせ何度も油物の食器を水に浸ける。ろくにトイレ掃除もしないくせ、座って用を足すことをお願いしても徹底してくれない。何度指摘しても台所にこぼした液体を拭き取りもせず平気で放置する。子供の機嫌がいいときにだけほとんど道楽感覚のような育児をするだけで、ほんとうに手を貸してほしいときは頼りにならない。
 安易に「ごめん」と謝るのは、相手に対してとても楽に許しを請う、ズルい行為だと常々感じていた。反省は言葉ではなく態度で示すべきだと。だから彼女は夫に対しては極力、謝ることをしなかった。

 その自分が、安易に「すみません」と口にしている。咄嗟に場を繋ぐだけの、空っぽな言葉として。まるで元夫のように。その皮肉に自嘲的な笑みがもれたのだ。

「おばあちゃんみてみて、バッタ捕まえた」

 龍之介が声を上げながら駆けよってくる。その小さな指先では翅を摘ままれなされるがままとなった昆虫が、六本の足をわたわたと動かしていた。

「ぎゃあ」

 母親が慌てて腰を浮かす。虫は苦手なのだろう。
 柿崎婦人は笑顔こそ崩さなかったが、口元をひきつらせてのけぞった。

「うわあ、すごいわねえ龍之介くん。素手で取ったの?」

「トノサマバッタなんだぜ」

 龍之介は得意げに頷く。

「龍之介くんもずいぶんたくましくなったわねえ」

「逃がしてあげなさい。今すぐに。今すぐよ? いいわね?」

 母親が真剣な口調で命令すると、龍之介はつまらなそうな顔をしたが、素直に従ってその場にぽいっとバッタを手放した。逃れたバッタは着地するや、バチチチと音を立てて羽ばたきながら母親と柿崎婦人の間を跳んで抜けていった。

「なぜこっちに解放する!」

 母親はこっぴどく龍之介を叱り、柿崎婦人にも驚かせたことを謝りなさいと背中を小突いた。ちょろりと鼻水を垂らし、ぽけっと口を空けた顔のまま、しかし素直にごめんなさーいと従うところ、本人はどうして自分が謝っているのかもよくわかっていない様子だったが、そこが愛らしくもあった。

「すみません……ほんとにもう、色々と」

 森屋涼子は謝罪する。今度こそは切実に。

「いいのよう。孫と遊んだ賑やかな頃を思い出すわ」

 柿崎婦人は本心から言って哄笑した。

 幼い頃から割と自分に懐いていた孫は、大学生になっても年に2~3度は埼玉のほうから足を運んでくれていたのだが、就職してからというもの多忙らしく、めっきり顔をみせなくなってしまった。致し方のないことだと割り切りつつも、どうにも物悲しい。

「家にいても見飽きた旦那の顔しかないんだもの。お礼を言いたいくらいなのよ」

 いつでもうちに遊びに来てちょうだいね。

 社交辞令としか受け取られないのだろう、きっと届かない本心を定型句にのせて婦人はひっそり笑う。
 森屋涼子は、自分たちを気にかけてくれる善良でやや押しの強い隣人に心を込めて礼を言い、しかし決して、社交辞令以上の意味には受け取らなかった。
 ふたりは引き続き和やかに他愛ない言葉を交わしながら、並んでアイスを食べる。

 今度は夢中でショウリョウバッタを追いかけまわす息子の姿を眺めながら、彼女は思う。

 龍之介にいつかごめんねと言おう。

 自分たち夫婦の勝手な都合で、彼から父親という存在を取り上げてしまったことを。

 今は言わない。

 やがて彼が青年へと成長し、両親が、意思をもって自分に母子家庭という環境を背負わせたことを理解できる年頃なってからでないと、その謝罪には中身などないと考えるからである。

 そのときに、私の意思で背負わせてしまった二人家族としての人生が、龍之介のことを満たしているものになっていないと、ダメだから、彼が許してくれるように、頑張って、今を生き抜いていくのだと。
 彼女はそう、ひそかに決心したのだった。

                     了

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