いちレズビアンが見る野木亜紀子『スロウトレイン』―野木亜紀子に縋りたい
『スロウトレイン』を見た。素晴らしいドラマだった。野木亜紀子にしか描けない物語だと真に思った。
鈍行列車が海岸沿いを走るふたつの街を舞台に、温かな孤独と暮らしを描いたドラマであった。野木亜紀子の脚本に、私達視聴者はいつだって翻弄される。しかし、その翻弄は不思議と心地よいものである。潮がこっそり招いた来客の正体や、百目鬼の水面下での策略、ユンスの不可解な行動など挙げだしたらキリがないが、2時間と少しの間に私はくるくると野木亜紀子の手のひらで心地よく踊らされていた。
そしてなにより、ゲイカップルの描写が見事だった。潮と百目鬼の関係が都子とユンス達男女カップルと同列に並べられ、描かれたこと自体に私は感動を覚えた。今の日本のエンタメにおいて、決してそれが当たり前ではないからだ。しかし、少しばかり思うところもあった。
ここで私が取り上げたいのは、前述したように、作中でのゲイカップルに対する描写とそれに付随する性的マイノリティを描く作品の現状である。前者は主に葉子の描写を中心に、後者は今の日本の性的マイノリティ作品群における問題点と野木亜紀子への期待について書こうと思う。
『スロウトレイン』に登場したのがゲイカップルであること、そして私自身がシスジェンダーのレズビアンであることも手伝い、この文章で取りあげる性的マイノリティの描写は主に同性愛者と仮定して話を進めていくことを記しておく。性的マイノリティと書いているにもかかわらず、マイノリティの広い範囲に明るくないことを申し訳なく思う。
また、昨夜リアルタイムで見た勢いでこれを書いているため、引用したセリフの忠実さやディティール等の言及はご容赦願いたい。意図が正しく伝わることを祈るばかりである。
1.葉子の描写から考える
まず初めに、葉子が2人が以前より交際関係にあったことを聞いたとき、弟が自分の知り合いと交際していたことへの驚きや百目鬼の弁明への反応を見せるのみで、自身の弟がゲイであることへの言及はまったくと言っていいほどなかった。同じく都子も。
ここは野木亜紀子の手腕が光ったシーンといってよいだろう。並の脚本家ならまだしも下手をすれば「男同士で付き合うだなんて……!」などという心底うんざりな、もう令和も7年目に突入しましたけど……みたいなセリフをここにねじ込んでしまうところだろう。きっと野木亜紀子自身が「こうあってほしい」「こうあるべきだ」と思っているからこそセリフに起こせるのだろうと感じた。
また、「男同士とかそういうとこにびっくりしてるんじゃないの」というセリフもある意味ではよかった。このセリフの裏には「通常であれば男同士という部分にびっくりする」という葉子にとっての前提意識が(たとえ葉子がそう思っていなくとも)隠れているため、わざわざ言わせなくてもいい気はした。だが、野木亜紀子は葉子をそういう人物像に仕立てあげたかったのかもしれない。人を傷つけないための極めて高い人権意識を持ってはいるが、それは決して完璧なものではない、というような。出来すぎていない人間にしたかったのかもしれない。確かに、作中の葉子は親代わりの長女として弟妹(+百目鬼)を諭す場面が多い。彼らを諭しその決断を促すポジションにいるのが完璧な人格者のような存在となると、きっと見ているこちら側だって窮屈に感じてしまったことだろう。
葉子はその後、自分の知らぬ間に潮が百目鬼と交際していて、そのための百目鬼の巧妙な策略に自身が利用されていたことに悶々と頭を抱える。我慢ならなくなった葉子はマッチングアプリで出会った男性達を呼び出し要所をぼかしつつ相談するわけだが、ここで葉子は弟達がゲイカップルであることを隠すような言い方をする。
小説家と元担当編集という特殊な関係であるため、会話中では葉子は百目鬼のことを「上司のような何か」、果ては「ミジンコ」呼ばわりしていたが、このどちらからもその性別を読み取ることはできない。であればこの「ミジンコ」と付き合っているのが自身の弟、つまり男性だと伝わっても、ゲイカップルであるかどうかは判別できないだろう。(書いていて虚しくなっているが)葉子の相談を受けた3人の男性は、もし葉子が「弟」という言葉を使ったとしても、きっとほとんどが男女間の恋愛だと想像しただろう。
だが、葉子は潮のことを「友人」とぼかした。この葉子の行為から、たとえ目の前にいるのが初対面の相手でも葉子は自身の弟がゲイであるということを知られたくない、という考えに至ってしまうのは決して難解なことではないだろう。
しかし、話の流れから考えても、自身の身に起こっていることの特殊さゆえに「できる限りすべての情報をぼかさなければ」と強迫的に考えていた、という理由がもっともではあるだろう。葉子の懊悩は画面越しにもありありと伝わったし、もし葉子が本当に弟がゲイだと知られたくないだけなら、「友人」ではなく「妹」とでも誤魔化せばよい話なのだ。また、目の前の相手が息つく間もなくひたすらにアウトプットし続ける必死さからもそう考えるのが妥当なのかもしれない。
ドラマの終盤、葉子は愛する人への決断ができない都子と潮を同列に並べ、諭す。それまでに描かれていた潮と百目鬼のシーンも影響し、ただ関係を築いている2人が同性であるだけで、その本質は男女同士の恋愛と何も違わないという当たり前のことが丁寧に描写されていると感じた。
そして、ここまで丁寧に描かれたからこそ、現実の異性愛と同性愛の同列でなさ(=権利の不平等)を感じることができるだろう。飛躍しすぎだと思われるかもしれないが、作中、葉子から見た弟妹それぞれの恋愛が同列であったとしても、都子とユンスは国を跨いでもなお婚姻関係を結べるのに対し、潮と百目鬼には今の日本で婚姻関係を結べる自由も権利すらもないのだ。私は自身の性的指向の元に思考しているためここまで展開してしまっているが、もしこれを読んでいる貴方が異性愛者だったとして、そして今回このドラマでのゲイカップルの描かれ方を見て「へぇ、男女の恋愛となにも変わらないじゃん」と思ったのなら、そこから一歩踏み込んで考えることはできると私は思っている。
2.性的マイノリティが「描かれる」ことそのものへの恐怖
さて、薄々お気づきかもしれないが、これは私の野木亜紀子に対する「高望み」である。もっと悪く言えば、「わがまま」である。
アンナチュラルでもMIU404でも、見ようとしなければ見えない問題を掬い上げる野木亜紀子の手腕は見事であった。野木亜紀子は作品を通して、それまで無関心であり続けた人々の意識をどれだけの数、その問題に向けさせただろうか。
先にも書いたように、私はレズビアンという自身の性的指向の元に物事を見、判断し、考えをめぐらせている。そのため、あまりそういった方面に関心のない非当事者よりは普段の生活における生きづらさや不平等性、街や社会、組織における偏見、差別にも敏感であると感じている。それは裏を返せば、この社会に無邪気に蔓延る無数の棘に自分から刺されに行くようなものである。そしてこの棘は当然、エンタメ業界にも蔓延っている。
昨今、性的マイノリティを描いた作品は多く制作され、地上波で放送されることも増えた。しかし、そのすべてが偏見も差別もなく丁寧に真摯に描かれているかと問われると、残念ながらそうではない。その積み重ねにより、正直に書くと、私は地上波に流れる性的マイノリティの描写が怖くなってしまった。
「無自覚な偏見に満ちた脚本かも」
「凝り固まったステレオタイプのキャラクターかも」
「偏見を助長するような心ない扱われ方をされるかも」
「演じる俳優が性的マイノリティに無関心かも」
「関係者がインタビューで差別発言をするかも」
「性的マイノリティの権利がないものにされるかも」
「"コンプラ"だとネットで叩かれるかも」
「真っ当な描き方だとしても視聴者からは拒絶されてしまうかも」――
性的マイノリティを扱う作品の情報を見た瞬間、私はこれらに始まる数え切れないほどの「if」を想像してしまうのだ。
これらは決して杞憂などではない。杞憂ならどんなによかっただろうか。私がこう考えてしまうのは、何も私が気にしすぎだとか神経質だとかいう話では決してなく、このような事例が性的マイノリティを描いた作品の周りで実際に山ほど起こってきたことだからである。
いくつか例を挙げよう。
昨年放送された『おっさんずラブ-リターンズ-』にて、「同性婚できなくても愛し合っていればそれで十分幸せだよね」という旨の内容があったことは記憶に新しい(*)。この事例は、同性愛者にも異性愛者と同様に保障されるべき婚姻の権利の存在そのものを真っ向から否定するものといえるだろう。
また、同性間の恋愛を描いているにもかかわらず性的指向を明言することを避ける傾向にあったり、プロモーション時から堂々と「結婚」と銘打ち「ふうふ」という体(てい)でストーリーが進んでいたためにドラマは同性婚が法制化された後の世界なのか、という期待の声が上がったにもかかわらず前述の「同性婚できなくても〜」等のクィアにとって不誠実な展開が取られたこともあり、これはクィアベインディングなのでは、という見方もちらほら存在した。
ちなみにクィアベインディングとは、発信する本人や作品内の登場人物が性的マイノリティであるかのように匂わせることで、性的マイノリティをはじめとした世間の人々の注目をひきつけようとする手法のことである。これは権力の圧に何かと屈しがちな日本のエンタメに非常によく見られ、最近では『機動戦士ガンダム 水星の魔女』において女性同士の結婚の描写(左手薬指の指輪等)があったにもかかわらず、制作側から後出しジャンケンのように「結婚はしていない、彼女らは同性愛者ではない」という旨の主張がなされたことなどが挙げられる。
他にも、同性愛を描いた作品に付けられる「性別を越えた愛」や「男か女かなんて関係ない」、「男/女だけど男/女が好き」といった、同性愛の定義からずれ、男女間性愛のみの価値観にとらわれているキャッチコピー等を一度は目にしたことがあるのではないだろうか("同性"愛なのだから性別は越えていないし(むしろ性別を越えて恋愛しているのは異性愛者の方ではなかろうか)、自分と同じ性別の人間を好きになるという定義なのだから男か女かという要素は大いに関係している)。
さらに、一般に「BL」や「百合」と呼ばれる作品は、ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、パンセクシャル等とはっきりとキャラクターたちの性的指向が明記されることは比較的少なく、書き手や読み手の多くも非当事者で構成されている。そのためか、ドラマ・映画化されて作品への間口が広がってもなお、いわゆる「男が好きなわけじゃない、お前だから好きなんだ」といった、同性愛指向を否定する文脈であったり(これはデミロマなのでは?という指摘もある)、「男しかいないんだからときめくわけがない!」という前提のもと作られたBLドラマ(**)があったりなど、現実にいる同性愛者の存在そのものを矮小化し、同性愛を描いておきながら現実世界の同性愛とは無関係だと言わんばかりの『BLはファンタジー』論調の作品は未だに業界の主流であり、後を絶たない。
そんな中、近年キャラクターの性的指向を明記するだけでなく作中で婚姻の平等や偏見、差別に向き合ったBL・百合作品が増えてきているにもかかわらず、不思議なことに、ドラマ・映画化されるのは必ずと言っていいほど前者ばかりである。そこには「政治的な要素」を嫌い、避けて通ろうとする前時代的なエンタメ業界の風潮がまざまざと現れているといえるだろう(そもそもの前提として、この世のすべてのものごとは敷かれた政治の元で行われているのだから、政治に関連しない要素などないはずなのだが)。
逆を考えると、どれほど制作側が丁寧に同性愛者を描こうとも、婚姻の不平等や偏見、差別も合わせて描かないと「BL」(=現実の同性愛者とは無関係)としてみなされてしまうのだろうか、という疑問さえ抱いてしまう。
これは、今回の『スロウトレイン』にも少し当てはまるように感じる。潮と百目鬼の関係は至極丁寧に描かれており、セリフの節々からも言わないこそすれ彼らの性的指向が互いと出会う前からゲイであったことも読み取れはしたが、現実の同性愛者が直面している負の部分はまったく描かれることはなかった。そうして実際Xには、2人の関係をBLとみなしたり「カプ」(カップリングの意。二次創作でよく用いられる)と定義するツイートが数多く見受けられた。
これらの無邪気なマイクロアグレッションに満ちた事例からも分かるように、私(私たち性的マイノリティ、と書きたいところだが)はこのような性的マイノリティを題材、またはいちキャラクターとして扱っているにもかかわらず性愛の尊さや目新しさやインパクト等の甘美な上澄みだけを啜り、現実の不平等や偏見、差別から目を背け、無関心で居続けようとする制作側の体制に心の底から疲弊し、もはやもうため息すらも出ないほどにうんざりしているのだ。
だからこそ、社会問題を描く名手・野木亜紀子に私は高望みをしてしまうのだと思う。
もちろん、野木亜紀子にはすべての社会問題を作品で取りあげなければならないという義務なぞまったくない。また、すべての差別、偏見、不平等と戦う義務ももちろんない(野木亜紀子にその意識がないというわけではないだろうが)。今回の『スロウトレイン』における葉子の完璧ではない人権意識も、あえてそういう人物像に仕立てあげた可能性は否めないと私は見ている。だが、どうしたって、これまでの野木作品のその鮮やかさに私は縋ってしまうのだ。
ドラマの序盤、明かされぬ潮の来客の正体が百目鬼であり、彼を出迎えた潮との関係性が徐々に見えてくるあの玄関でのシーンで私はわずかな希望を感じつつもほんの少し、身構えてしまった。
なんの前情報もないまま見ているドラマにゲイカップルが登場することを感じとり、先述した数多の「if」たちがそそくさと駆け巡ったのだ。結局のところドラマの終盤までその妙な緊張は解けることはなかったのだが、エンディングパートで冒頭のシーンのようにダイニングテーブルに隣合って座る潮と百目鬼の姿にようやく悟った。この緊張は杞憂であった。
いつか、野木亜紀子の手がけるクィアしか出ないようなドラマが見てみたい、とも思う。しかしそれにもまた、私はおろかにも「if」を連想して身構えるのだろう。
「不当な差別」などという文言の一切ない真っ当な差別禁止法が作られ、現行の婚姻制度が同性愛者にも開かれ、創作物に理由なく性的マイノリティが登場することが普通のことになり、誰もが着たい制服を自由に選べるようになり、この社会における差別も偏見も不平等も完全に消え失せるその日まで、きっと私は性的マイノリティを扱う作品をなんの懸念もなく楽しむことはできないと思う。なんと残酷なことであろうか。
何度だって書くが、これは私が気にしすぎだとか神経質だとかいう個人の範疇に基づく話では決してない。ひどくアンバランスで堅牢な、この社会の構造の問題である。
早く、日本の性的マイノリティの作品を真正面から純粋に楽しみたいものである。
(*)
(**)
追記:
Xにて#スロウトレイン で検索していると、3きょうだいのことを「結婚しても誰かと暮らしても独身でも……」という内容を3つ並べて書いておられる方を何人かお見かけしたけれど、やっぱりこの2番目が結婚になってほしいな……と私は思うわけです。どうしても。
都子とユンスは結婚したけれど潮と百目鬼には結婚という選択肢がなくて、半強制的に同棲が最終ゴールになってしまうの、(国が)いささかおかしいのでは……?と懲りずに思いますね……
つらいね……結婚したいね……同棲止まりで終わりたくないよ……。絶対勝ち取るかんね、権利を