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映画「若き見知らぬ者たち」〜酔いとガッツポーズ
俳優で、観に行きたくなる映画がある。
かつて、アル・パチーノやロバート・デニーロが出演する映画であれば、内容を問わず映画館に足を運びたくなった。
パチーノがギャングスタ、デニーロがボクサーを演るなら、当然のこと、甘い恋愛ものや、コメディであっても、観に行く価値があると思えたし、実際そうだった。
現在の日本において、俳優の層の厚さは、尋常でない。
優れた役者が今ほど存在した時代は、かつて無かったのではないかと思う。少なくとも、リアルタイムで自分が邦画に触れてきた二つの世紀に跨ぐ期間で、この十年ほどは、今がベストと思い、年々ベストが更新されてきた。
日本映画に関しては、私は今、ほぼ俳優で映画を観ている。
本作、「若き見知らぬ者たち」も、この数年来気になる存在であり続け、昨今、テレビドラマ「不適切にもほどがある(以下ふてほど)」で決定的なものを見せた、磯村勇斗氏が主役を演じると聞き、「ケイコ 目を澄ませて」で観る者を圧倒した岸井ゆきの氏が次回作として彼の恋人役を選び、他にも染谷将太氏、霧島れいか氏、滝藤賢一氏らが脇を固めるとあっては、やり過ごす方が難しい。
結果として、各俳優の演技は、凄まじいものだったと言える(それを目の当たりにするだけでも、本作を観る価値はあるだろう)。
磯村勇斗氏という俳優を他と大きく隔て、際立たせているものは、その「受身性」にあると、私は思っている。
上記「ふてほど」でそれは露見したが、本作での、「やられキャラ」ぶりは尋常でない。
映画の冒頭、霧島れいか氏演じる母親の精神錯乱が家の中を滅茶苦茶にした残骸を恋人と一緒に片付けながら、彼女の「する?」という言葉によって、自ら猛々しく女性に向かうのではなく、むしろ受身として行為に及ぶ姿にも、それは現れている。
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磯村氏が演じる風間彩人という男は、この世界で起こるあらゆる事柄を、受け止めるだけで、状況を変えるために何らかの行動を起こすわけではない。
もしも彩人が本気で状況を悲惨と感じ、真剣に抜け出そうとしたなら、いくらでも他に方法はあっただろう、と思った人も少なくないはずだ。
それについて、こんな声が聞こえてきそうである。
「状況を甘く見ないでほしい。我々の住んでいる世界はあまりに酷く、重く、のしかかってきて、個人が動いてどうこう出来るレベルではない。少なくとも、起こっている事柄を真摯に見つめて、受け止める他ないのだ。
それに、主人公の男は行動を起こさなかったわけではない。警官に職務質問された無実の男をかばって縦ついたりもしたではないか」
そう、まさに自ら起こした唯一の、受身ではない行為によって、目を覆うばかりの悲惨に、主人公は巻き込まれてゆく。
この受身性は、長く経済が停滞し、超高齢化社会を迎えた日本に、救い難く染み付いたものかもしれない。
なにもかもが、もうどうしようもないところまで来ている。酷い事が起こると分かっていても、残酷な日々の出来事に対応するだけで精一杯で、もう苦しいと声を挙げる事すら出来ないんだ。
本作のみでなく、同じ「ふてほど」の鮮烈な演技につられて観た、河合優実主演映画、「あんのこと」も、救いのなさは惨いものであったし、杉咲花主演の「市子」も、想像を絶する悲惨な境遇を生きる女性を描いた。
「市子」は、突然降り始める雨や縁日の焼きそばなど、悲惨に対位される映画的な要素があって、救われているが、「あんのこと」は、物語としては、主人公が他人に押し付けられた幼児に惜しみなく愛を注いだ事が、悲惨に対位されるものかもしれないが、正直、観続けているのが私には辛かった。
端的に言うと、世に二つと存在しない素晴らしい素材を用いて作られた料理が、えらく不味く感じられたというのに近い。
俳優はその職業的な本能から、困難な状況を演じる役柄には飛びつくだろう。事実、本作でも狂気の母を演じる霧島れいか氏、それをひたすら受け止める息子、磯村勇斗氏の演技は、或るレベルを超えている。それはつまり、悲惨を情緒たっぷりに演じるのではなく、悲惨を、悲惨そのものとして、生きようとしている。
どういう事か?
人が対応できる範囲を出てしまったものに、対応しようとする事・・・人間が経験できる出来事にも器があって、悲惨が水量を越えてしまうと、感情さえ、吹き飛んでしまうだろう。
そんな領域まで、俳優はその職業的倫理観から演じようとし、今作ではおそらく、演じてしまっている。
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レディオヘッドの曲のような、一切の情緒を欠いたまま、開かれた目に点滅するサインのように、ただ風景が流れてゆくだけの世界。
amazarashiの曲にリアルを感じる者たちには、世に流れるほとんどの曲がチャラチャラした浮ついたものにしか聞こえないだろう。
悲惨の器でいえば、「あんのこと」や「市子」はどうしようもなく悲惨であったが、本作の主人公、風間彩人の悲惨は、そこまでとは思えない。
先ず彼は孤独ではない。自分を愛してくれる恋人、親友と呼べる友、かつて愛し合い幸福だった家族がいる。
坂の多い神奈川の風景、見たところ持ち家である(でなければあれほど家をゴミ屋敷にして住んではいられまい)ようだから、不動産を処分し、得た金銭を母親の病気療養に充てる。スナックを営む店舗も畳んで保証金を受け取るか、採算が見込める店舗なら毎晩自分でそこに立ったりはせず、人を雇えばいい。
家族で住んだ家だから、将来の夢を描いた店だから、我慢をしても自分がそれを繋ぐ?
そのやさしさが、誰かを傷つけるとは考えないだろうか。
自分が耐えれば、何とかなるというのは、どこかに傲慢さが潜んでいないか。
そんな世俗的な価値判断はもう、吹き飛んでしまった後の世界の話なのだと言われればそれまでだが、何よりも先ず、強くなるしか道は残されていない。
そのために人は、なけなしの武器を磨く。風間彩人の場合は、母親が錯乱した家庭内外の片付けをし、世間に謝ってまわり、夜のスナックに立つよりも、かつて周囲からは認められていたサッカーの技量を磨き、それで生活が成り立つか早期に見極め、駄目なら直ちに別の武器を磨き始めるべきだろう。
それがアルバイトであってもいいし、正社員であってもいい。
今の日本が、やられキャラの人間が、「やれやれ」と言いながら過ごせるようなヌルい社会ではないことは、もう主人公は痛いほど分かっているはずだ。
ここで私は見えない者の声を聞く。
「肉体ではなく、精神の病の介護を受ける人間がどれだけ悲惨な扱いを受けるか、あなたは知らないだろう」
個人的な話になるが、見聞きしたレベルではなく、ごく近しい人間の話として私はそれを知っている。監獄よりも(おそらく)酷く、人間扱いなど到底望めない世界が、我々の近くにある事を。
だとしても、先ずは自分の足で立てるようにならなければ、守るべき者も守れないだろう。
イメージとしての拳銃に戯れている場合じゃないのだ。
そして作品は、いくつも生じてくる疑問符に、真っ向から、真正直なほどの姿勢で、解答を与えようとする。
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あの、異様な長回しのリング格闘シーン。
と言うより、ノーカットで、闘う者のすぐ側で撮影されるドキュメンタリー。
俯瞰でもなく仰角でもなく、カメラは、闘う者を捉えるというよりも、闘う者と一緒に動きながら、世界の何かと闘おうとしているようにさえ見える。
主人公は社会的に圧殺された長男から、ここで唐突に次男壮平(福山翔大氏)に代わっている。
サッカーで未来を切り拓けたかもしれない長男が、そこではベンチウォーマーだった次男の、責任の比重を自分に比べ圧倒的に軽くし、ある意味好き勝手に格闘技に向かわせたのは、この伏線のためだったのかもしれない。
次男は言う。凡人でも、リングに立ち続ければ、せめて手の届く範囲だけでも、止む事のない暴力から、大切なものを守れるかもしれない。
次男が辛勝した時、演出撮影陣と俳優陣は(実際か心の中のどちらかで)、ガッツポーズをしたに違いない。あたかも世界中の映画作家を打ちのめしたかのような、ガッツポーズが画面に映り込んでしまっているのを感じ、その気分に勝利者のシャンパンファイトのように酔ってしまっている気配を感じ、いささか鼻白んだ。
そこではじめて、監督が誰なのか気になり、後に「佐々木、イン、マイマイン」と同人物と知って、腑に落ちた。
酔いの種類が同一なのだ。
本作「若き見知らぬ者たち」では俳優たちが口を揃えて、自分らと苦楽を共にした監督の姿勢を讃えているが、我々観客に伝わる「酔っている彼らのガッツポーズ」は、そんなところにも起因していると感じる。
演出者と演者は本来、違う領域で仕事をするものだろう。
JLゴダールが「勝手にしやがれ」で商業デビューする際、撮影現場は盛り上がるどころか、監督はスタッフに信頼すらされず、ワケのわからない変人扱いだったという。唯一主演のJPベルモンドだけが、奇妙な乗り物を面白がって遊び、暴れた。同作品は、世界の映画史を塗り替えた。
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「若き見知らぬ者たち」の作品の酔いから、ただ一人、距離を置いているかに見える俳優、染谷将太氏が、死んだ親友のスナックで、床に生々しい血の跡に彼の本当の死に様を悟ったのか、(もう酔ってしまおうと)マイクを握り歌うのは、「我が良き友よ / 吉田拓郎」。
70年代フォークが奇妙な使われ方をするのは、「佐々木、イン、マイマイン」から続く特徴だから驚かないが、神アーティストの曲をここまで伴奏的(説明的)に使うのは・・・「佐々木、イン、マイマイン」にしろ、本作「若き見知らぬ者たち」にしろ、前情報もなくぶらりと、一度ならず二度までも、映画館に足を運ばせてしまう何かが、この演出者にはあるのかもしれないが、これからは監督名も必ずチェックしてから劇場に向かおうと決めた。
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三島由紀夫が最後の最後まで気になっていた事、それは日本人が完璧なやられキャラになってしまうという世界線だったのではないだろうか。
自分らはまだしも、未来の子供たちにまでそれが及ぶのは忍びない。そのための自衛隊体験入隊であり、市谷事件だったと、考えてみる。
彼の予言は見事に当たった。その後の世界までリアルに想定できたはずの作家には、自分の孫のような世代の若者たちが、本映画のように、現実になす術もなく打ち負かされる姿が、見えていたかもしれない。
守るべきものを次々に失くし、大切なものを守ろうとするだけで、徹底的に圧がかかってくる世界。身に覚えが無いという人は、幸運を神に感謝した方がいい。
そこで人はどうするか?
太宰治が大嫌いだと宣言してデビューした三島は、晩年、太宰がとても気になっていたという。
必ず負ける。自らすすんで、挽歌をうたう者となろう。
再び、吉田拓郎の、神曲の中の神曲、「落陽」。
「この国ときたら、賭けるものなどないさ、だからこうして、漂うだけ」*
漂う、出来るならスピードとエンジンと共に。
この国の、依然美しい風景の中を。
我々は、負ける。経済の力や、政治の力で、大切なものたちが、次々に壊されてゆく。国を代表するアーティストが意義を申し立てても、覆らず、負ける。神宮外苑も、日比谷公園も、爆撃を受けたわけでもないのに破壊されてゆく(良い方向へ変わってゆくなら、異論はないけどね)。
もしかして、戦争に突き進んだのも、こんな感じだったのかな?
窮鼠猫を噛んで、気分だけでもいいからガッツポーズをしてみたかったのかな?
我々は、負ける。肩の力を抜いて、せめて見届けよう。長く、先の方まで。
そして出来るなら、次の人たちに伝えていこう。あるがままの今を、悲惨を、そのままの姿で。
長生きして、首筋がバキバキになった、バイクに乗った太宰治?
斜陽も落陽も越えて、先の見えぬ暗闇が続くとしても、
疎開先でも、どこへでも、逃げ延びて、富士山を眺めては、見惚れたり、からかったり、何度でも、してやろう。自殺なんて考えるのやめて、バイクに乗ろう。
漂いながら、自分の周りをできる限り愛しながら、
美意識は、失われていない。それどころか、
俳優が素晴らしすぎるこの国が迎えた季節を、私は愛おしむ。
*「落陽」 作詞:岡本おさみ 作曲:吉田拓郎