人間らしさと引き換えに人間になる
目上の人ばかりの会議で無意識に足を組んでしまっていたり、仕事中にスマホを触るとそのまま数時間SNSの森に迷い込んだり、いろんなものに興味がありすぎて結局何も手につかなかったり、部屋や車が全然片付けられなかったり、車をぶつけたり、ものを失くしたりする度に「自分、ADHDなんで笑」とネタにしてきたんですけど、ここ最近のメンタルの不安定さから精神科でふたたびアタマを診てもらったところ、本当に思いっきりADHDであることが判明しました。
もちろんこれまでも自覚があったのでまあ診断されればそうなるだろうなとは思っていたのですが、病院に行けば薬がもらえるわけで、昨日からさっそく飲み始めています。ADHDの特徴である注意欠如は脳内物質のノルアドレナリンが不足していることから起こるらしいのですが、この薬によりその濃度が上がり、集中力が増したり余計なことを考えなくて済んだりします。今までずっと情報がガチャガチャしていた頭の中は凪になり、晴れて僕は”人間”になれるわけです。
頭の中が落ち着くということは、食欲や性欲が少しセーブされ、感受性が落ち、「美味しい!」とか「嬉しい!」とか「感動!」みたいな衝動的な感情が起こりにくくなるということでもあります。クリティカルなアイデアというものは「これ、ぜってえ面白くなるぜ」みたいな衝動的な熱狂から生まれることが多い気がしているので、これからはあんまりそういうことを思いつかなくなってしまう可能性があります。ラーメン食べてうめえと言ったり、いつでも体がそわそわしていたりすることは、自分で言うのも変ですが僕の持っていた人間らしさ、人のかわいさの一つだったのかな、と今になって思いますが、「苦しい個性」よりも「虚しい合理性」を選択せざるを得ないくらいにはしんどかったので、”人間”になれるのであれば人間らしさなんかくれてやる、といったところです。
僕は薬を飲み、この個性を治療することを選びましたが、同じような発達特徴をもつ人がもし「自分はこのままでいたい」と思うならば、そのままでも生きられるような社会を作りたいと、今でも思っています。むしろ自分が責任を持つプロジェクトに関しては、その個性をもつ人が「必要な風穴」を空けてくれるような場面もよくあります。その人らしさ、他の人にはない可愛さは、人の感情を動かすからです。そしてその愛すべき真実をオープンにすることは、僕はかっこいいと思います。
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