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ハガネの小鹿が砕けぬように(5)

5-1

夜八は、自分の解析結果ではない部分、つまり函館にマフィアがいる可能性については、回収班の課員に話した。あまり馴染みのないその響きに一同はほんのり笑ったものの、猟銃の件について考えて神妙な顔をした。そして、
日をまたぐ。またも嵐の隙間を縫っての雪の林であり、またも光の落とされた赤方偏移の柱である。
「ぷおちゃん、休んでいても良かったんですよ」「お構いなく。片足だけでもひとっ飛びくらいならできますからね」器用に一本足で跳ねる国分寺の後を夜八がついていく。
「もう見つかったみたいですね」「今日もきれいですねー!」ホロウがにやりと笑って腰に手を添える。和泉童子がリュックサックがずり落ちないようにお辞儀をする。
さて、もう5日目だろうか。あたりはカシオペアが立ち並び、彼らは一点を見つめながら4人に向かって壁を成す。音すらも凍り付いた氷の林の雪の向こう、奥の奥には輪郭をねじ切り曲げるぎざぎざのナナカマドが風に黒ずんだ紅葉を揺らしている。
「言ったとおりに!和泉さん!」と夜八が声をかける。どうやってあのナナカマドにたどり着くのか、簡単なプランを立てて朝のうちに指示してあった。つまりカシオペアがやたらに注目していた和泉童子を2人マウントし、攪乱しながら攻め込んでみようじゃないかということだった。
ぱかりとリュックを開きもう一人の和泉童子を取り出した和泉童子は、和泉童子と逆の方向に駆けてゆく。リュックから出て行った和泉童子はふらふらとカシオペアの壁の側面に向かい、そうでない和泉童子はホロウを引き連れて軽やかに走り込む。
すると、カシオペアはどちらの和泉童子も首で追おうとするのでぐりんぐりんと振り向き続けながら立ち止まる。顔は変わらぬおすまし顔だが、明らかに困惑している。
「ほんとだ……気づきませんでした!どうして私を追うんでしょうか?!」と和泉が驚く。「つのでしょうか…………!」と、角を生やした夜八が応じる。
しかしともあれカシオペアの動きは鈍らせることができた。夜八はさらに彼らの列に注視し、角の網を作れないように、体の向きが他のカシオペアの頭部を向いていないような並びを見つける。ここなら、前に見たカシオペアの、弾丸を止める動き、あれを起こさせない位置ならば!「ぷおちゃん!あそこ…!」「ええ、11時半ですね!」
ぐっと腰を下げ、その隙間に国分寺が“ひとっ飛び”で鋼鉄の角の隙間を突っ切ろうと飛んでいく。が、まっすぐ一直線の軌道ではどうにもいけないようで、絡めとる角の動きを足で蹴り返し、重い音とともに跳ね返ってくる。「ぷぉ……」と派手に転がりながら、船舶の少女は雪を巻き上げる。さっと夜八の顔が青ざめる。
「ぷおちゃん!」と夜八は言ったが、その時複雑な影が視界をふさいだ。赤暗い世界の中で、照り返しのない黒くて折れ重なった影が迫っている。――目の前まで、子供だろうか?他よりややも小さな体躯のカシオペアが迫っているのが見えた。
眼を動かすと、和泉とホロウもやや追い詰められている。ふらふらしていた方の和泉童子は大きな樹氷を背にして数頭のカシオペアに囲まれている。
右、左、右、右、左、右、左、右、左。
間に合わない。
何もできない?
夜八はおぼろげに見えている、その鋼鉄の、その大降りで長大な魔性の掌の軌跡の音を見るために、全身の神経をとがらせた。いや、意識の先端をとがらせた。
一歩、前に出る。
周囲が真っ暗に落ちて自分すら見えない。意識で得た情報を削いで削いで篩にかけて、落ちてきたわずかな数字を積んで積んで次を見る。
目に見える範囲、狭くて小さな扇形、その範囲だけでいい、ほんの少し先が見えてほしい。そう思った。
瞬きのように視界が切り替わる。見える物質の世界と、見えない重力の世界。そのわずかな差が積んだ数字に重なって、次の軌跡の尾を引いた。

「前に走ってください!一歩目は右足に体重をかけて姿勢を低く!二歩目は大股でそのまま右に倒れ込むように!」
と、早口で叫んだ夜八は、叫びながら自らも駆けだして滑るようにカシオペアの足をくぐった。
ホロウと和泉が荒い息で、捻挫をしそうな態勢で雪に転がり込む。カシオペアは壁を越えられてきょとんとしている。
「え……」「国分寺さんほど足が速くなくても、案外行けちゃうんだね!」ホロウが子供のような笑みを浮かべる。
ア……ぅゎ…………皆さん、左後方は、なんていうかその、見ない方がいいと思います」控えめに言って和泉のしっぽがぷるんと揺れる。
「は/は/は。うまくすり抜けましたけれど、帰りにもう一度同じことしなきゃいけませんよ」と、雪に埋まった国分寺が言う。「帰りは帰るときに考えます!ぷおちゃん、カシオペアから離れてね!」はいはい、わかってますよ。と、国分寺は下半身を大きく回しながら遠心力で立ち上がり、から傘おばけのように飛び跳ねて下がる。
さて、カシオペアはゆっくりとこちらを向いてくる。非常にスムーズに顔だけを回転させて、機械のような不自然な滑らかさで、こちらを向いてくる。じきに接近してくるだろう。その前に。その前に、だ。
「これが重化ナナカマドですか!なかなか幾何学的で美しいシェイプですね!」その一本、細いものにウィンチをかけて起動し――和泉はぎょっとする。「全然動きませんね?!」
少し細いものにしましょう。と言って気づく。重化ナナカマドは――屈折のせいでわかりづらかったが、それぞれの育ち方がてんでばらばらだった。大きく育ったもの、細く伸びているもの、まだ芽吹いたばかりのもの。
その芽吹いたばかりの、それでもなお紅葉しているその苗を、土ごと掘り上げたホロウは「お…………重い!!」と悲鳴を上げる。慌てて和泉がウィンチから手を放し、重力遮断の小型ドローンを括り付ける。が、そのドローンはこんな時なのに全く機能しない。仕方なくもう一つのウィンチを取り出しバッグに苗を包んで留めて、握りしめるよりは持ち運びに適した形に整える。これで良し、と和泉がバッグを抱えると、
ぶわあと赤くて細かい粒が風に乗って巻き上がり、あたりを真っ赤に染め上げる。ぼんやりと光っているそれは――頭上のナナカマドの花から巻き上がっていて、ウィンチが放された反動で舞い散ったものだろうか。これは花粉だろうか?と思う頃には、夜八は尋常ではないめまいに襲われて、雪の上に膝をつく。
「夜八さん!」と和泉が肩を支える。赤い粒子の一部は上空へと向かっていき、少し混迷が和らいで、夜八はふらふらと離れる……カシオペアは?と見ると、周りの重化した灰色の鹿たちは巻き上げられた粒子の影響か、きょとんとしたまま動かない。この粒子、これが行っていることは。
「重力波の――遮断…!」夜八がつぶやく。重覚の異常な阻害、カシオペアの角の機能不全、この真っ赤な地獄めいた色彩。「【四界嵐】の正体ですか」
そうかもしれない。とにかく空間を満たしたナナカマドの花粉には重力を――『魔法』をせき止める効果があるらしい。これが薄れてしまうよりも早く、この場からナナカマドの苗を一株持ってモールへと帰ろう。そう4人は思った。思った時だった。
ひゅん、と音がする。カシオペアの小柄な1頭が悲鳴を上げて、キラキラした血液を雪に落とす。見ると、何かが“かすめた”ように脚が裂け、怪我を負っている。
「密猟者ですか!」とホロウが向き直って向かっていこうとするのだが、ちょっと離れた場所で座っていた国分寺が「やめましょう。苗はあります。相手は銃を持っています。帰りましょう」と言う。でも。国分寺は黙って首をゆるゆると振る。
夜八は前を向いて――「そう、ですね。多分まずいと思います。このままでも、彼か、彼らか――はここに来るでしょう。カシオペアの悲鳴を聞いていますし、花粉が舞って他のカシオペアは動けない。銃を持ったマフィアに、わたしたちは勝てない」と言う。ですが。
ですが。ここでこのカシオペアを見殺しにすると、多分私は後悔します。納得いかない。かもしれません。
国分寺はそれを聞いて、後ろを向きかけていた体をゆっくりと振り向かせる。「なにか考えがありますね?」はい。と夜八が返事をする。
「ホロウさん、少し離れて、“密猟者”が近づいてきたら教えてください。和泉さん、ナナカマドを揺らして、花粉をもう少し舞わせてください。ぷおちゃんは、……雪の中なら、花粉が舞っていてもエンジンの駆動はできそうですか?」「ボクを氷漬けにするつもりですか」と言いながら、国分寺は夜八と和泉と一緒に雪の塊をこさえてそこに埋まる。銃弾の飛んできた方向、ナナカマドの木とカシオペアの群れからは少々距離がある。そんな場所だ。
「一瞬なら行けそうです」と国分寺。
「では、ぷおちゃんは合図があったら“4速”で斜め後方に飛んでください。私は向こうで雪に埋まって待機します。カシオペアの角の軌道を見なくてはならない時があるかもしれませんので。」
4速ですね……4速……?ヨルハチ、もっと離れないと危険ですよ」音速の危険性をやっとこ覚えた国分寺が言うが「はい」はい。と夜八は答える。国分寺はため息交じりに、いつもの能面の笑顔にほんのちょっぴり皮肉っぽい表情を加えて、「ぷお」と言った。
そして静まり返る。歩いてきたのは――二足歩行のアンドロイドだった。この気温で薄手の黒スーツにサングラスをかけ、筋の入った金属質な顔面であたりを見回す。かなり古い型のものだ。そして、錆みたいな色の足首には、青黒い高波が刻印されている。アンドロイド・ヤクザ。鋼鉄のマフィア。銃を持って迫りくる、地獄の角刈り密猟者。
充分近づくまで待つ必要があったので4人はしばらく息を殺していたが、アンドロイド・ヤクザは夜八のコートが雪からはみ出しているのに気付き、そこに銃口を向ける――そして、3歩ほど前に出て、
「今です!」と双眼鏡を持ったホロウが叫ぶ。雪の塊から猛スピードで国分寺が飛び出し――速度のあまり服がかなり破れ――風が巻き上がる。花粉が飛び散って、カシオペアが身動きを取り戻す――2体のアンドロイド・ヤクザを瞬時に抱え上げ、なんども地面に打ち付ける。
離れたところにすごい勢いで着地した国分寺は、隣に同じく大きく舞い飛ばされたであろう夜八を見とめる。「…………大丈夫ですか?」「ちょっとダメかも。でも、このコート、すごい衝撃吸収能力があるみたいです。捻挫とかしてそうですけど……ほかは平気かと」
「というか、“4速”でワタシが密猟者に体当たりすればよかったのでは……?」
あ…………相手がどんな奴かわかりませんでしたし、ぷおちゃんは怪我を…」「いえ、ワタシは……」
と。ホロウと和泉がそこに近づこうとしてぴたりと止まる。小柄なカシオペアが、夜八と国分寺のすぐそばに歩み寄っていたのだ。――充分な距離があったので、風圧の被害はないらしい。そんなのんきな観察をしている場合ではない。夜八は意識をとがらせ――
「あれ……この子、角を私たちに向けてくる気配がありませんね……」

5-2

区画役所の七三分けの職員は、黒いバンで届けられたアンドロイド・ヤクザの廃棄手続きを行っていた。――そこにオールバックの男がやってきたので、向き直って笑顔を見せる。「ああ、お疲れ様です」「どのツラ下げて言ってんだ、オイ」
「販売停止していたナナカマドジャム、カシオペアの群れが採取の障害になっていて、その原因は長期間の密漁により、当の彼らが追い立てられたせいだったってすでに出回ってんぞ」「申し訳、ございません」職員は笑みを浮かべる。
「しかし、大丈夫ですよ。環境課の連中がなにか嗅ぎ回っていたようですが、証拠はなにもありません」
「?」
ホロウは、なにか噂をされたような気がして、手に持った鉛の弾丸をくるくると回す。

5-3

「これでよし……と」夜八はひねった自分の足首にテーピングを施して、小柄なカシオペアの足の傷を水ですすいでやった。「いいの?戻らなくって」カシオペアはおとなしく、目をつむったようなおすまし顔のままで、重い金属を叩いた声で返事をした。
ついてきてしまった小柄なカシオペアは、はじめのうちモールの外、雪の積もったところにとぼとぼと待っていたのだが、ホテルの厨房スタッフが裏口近くの扉を開けてくれて、建物の中で待たせておくことができた。密猟者が――アンドロイド・バトル・ライフル・メタリック・ヤクザが、あの2体だけとは限らない。
「ぷお……おもしろい角ですねー……重覚探知のアンテナになるらしいとか聞きました」「それで密漁が」このカシオペアはどういうわけか、少なくとも四人に対しても、厨房スタッフに対しても、そのおもしろい角を振り回すことはなかった。
事の顛末をメールで送信し、夜八が一息つくと――すぐに呼び出し音が鳴る。フェリックス・クライン。この世で最も不吉な11文字。
『お疲れ様です。フェリックス・クラインです』「お疲れ様です。フェリックスさん」
『ええと、思ったよりもかなり大変な目にあってしまったようですね。申し訳ありません。』「いえ……」目の前に相手はいないというのに身振りをする夜八の癖を見て、国分寺が薄笑いでその動きの真似をする。「ぷおちゃん、やめて」小声で叱る。
『しかし……重覚の鋭敏化……四物限定ながら、サポートなしでのごく小規模な未来予測の獲得とグラビテリオリそのものに懐かれてしまった、というアクシデントは、なるほど。すみません、お気を悪くされると申し訳ないのですが、いいですね
「船着き場にまでついてきてしまったらどうしましょうか」
ふむ、と一息考えて
『その場合は連れ帰ってしまってください』と言う。『バスで移動してもついてくるような個体となれば、海を泳いで渡ろうとするかもしれません。カシオペアは泳げませんからね。個体数を保存することが指示されている動物を――見殺しにすることは罪でしょう』
トラックを用意いたします。と言うフェリックスに驚く夜八。「いいんですか」『いいですね』ニュアンスが違う気がする。
クックック…………ヘレンさんや皇課長がどんな顔をするか見物ですね……なにか問題が出た場合には“フェリックスから指示を受けた”と返してください。では。以上です。体に気をつけて帰ってきてくださいね』
テレビ通信でもないのに、あの虚無の笑顔が浮かぶ気がする。「フェリックスさん、なんて言ってました?」「クックックって言ってました」ぷお。と納得したような声を出す国分寺の足にもガーゼを巻いたあとで、夜八は小柄なカシオペアの首をなでた。灰色の鹿はおすまし顔のままで金属音の返事を返す。

5-4

小型フェリーのブリッジでぐったりしたホロウを寝かしつけた国分寺は、運転を自動にして甲板に出る。灰色の鹿と――機角を備えた件の少女。
「海はお好きですか」と船舶は聞く。「はい」と夜八は言って「見たことのないものがこの下に、底に、深い場所にたくさんありそうです」と続ける。
ぷおちゃんは?と聞かれ、「ワタシは……どうでしょう」と答える。「昔、悪い友達に、海におもちゃを落とされたことがあるのです。もう一度遊びたかったな…って思ってしまって」
夜八は、それは悪いひとですね!と言う。国分寺はくすくすと三日月の口で笑って、昔は人を見る目がなかったのです。とこぼす。
少しふたりとも黙って、海を眺める。遠くの方で大きな影が伸びあがり、氷のしぶきが飛び散っていた。

#VRC環境課