ブラインドカーボンコピー
1
「皐月さんは……非科学的なものというか、ずいぶんオカルトがお好きなんですね」
フェリックスは後ろから近づく足音に振り返りながら、折りたたみ式の携帯灰皿へと吸いかけの紙巻きタバコを押し付けた。革がコンクリートを叩くまろやかな足音。月島皐月がフェリックスの隣まで歩み寄り、ベランダの柵に指先をかける。
「ああ。オカルトは好きだ。UFOも幽霊も信じている。そしてそれらは全て科学で解明できると思っているよ」彼女はそう嘯く。「フェリックス、君はどうだ」
風が弱々しく吹き付けて、月島の長い髪を揺らしていた。彼女は赤いフレーム、スクエアタイプの眼鏡を手にとって、つるの部分を指先で弄っている。
「……」フェリックスは答えあぐねる。そうすると彼女は少し笑って、眼鏡をかけ直し、同僚をまっすぐ見つめた。
「フェリックス、ドルイド氏族を見てみよう。天然電脳とかいう……あの首に乗ったパンドラの箱には何が入っている?是非とも開いて中身を見てみたいものだ」
…………。
目を開く。
環境課の庁舎内に与えられた仮設の実験室。頬杖をついたままの姿勢。四次元物理学の専門家、フェリックス・クラインはわずかな間、眠りについていた。
彼はすっかり冷めた紅茶を手に取り、電脳内のファイル整理を再開する。
“カーボンコピー”。AIによる四次元への思想統制。感染する殺傷事件。開きかけた重力災害の扉。それが片付いたのは、ほんの二日前の出来事だ。
事件の解決に際し、高次元物理学会の元執行部としてはあるまじき働き――申請無しでの実験器具の作戦流用、学会のリソースの無断使用、汚染区画への生身での接近。そのようなことを行っていた彼は、ブロック間法に触れないよう、それらの事後申請をうまくごまかしておく必要があった。最も、そういった事は彼にとって慣れたものであったし、ひょっとすると実験や研究よりも得意な分野でもあった。
頭の中の棚を切り分けていると、刺激的な色合いで受信ボックスへと未確認メッセージの件数がポップする。返信できていなかったメッセージもいくつかある。正直なところ、“カーボンコピー”事件の終わりしなについては、寝る暇もあまりなかったと言っておかしくない。『雑誌掲載の件について』『相模支所より』『環境課管理区域のエネルギープラント』『おい』
『おい』の送り主は月島統四郎であった。よく見ると、『環境課管理区域のエネルギープラント』の送り主も同じである。
「……」
『フェリックス、そちらから通信をかけておいて黙るな』
甘い声。月島皐月の声帯を震わせて、月島統四郎が声を発している。
『まあ、事態はだいたい聞いている。申請は通しておくから適当に送ってくれ』
「いつもありがとうございます」
フェリックスは返事をしながら、メールにあった件の資料を電脳通信で差し渡す。
「エネルギープラントに関しましては、汚染区画の資源利用を行い近隣の生活レベルの均一化を図るためのものです。完全に、とは行きませんが、R-1Nにベーシックインカムの導入と、一部貧困層から相談のありました電脳施術の無償実施を計画しております」
『ああ――事業計画書に書いてあるだろう。それくらいは読んでいる』
わずかな間。月島統四郎が高度電脳をひっくり返して資料を読み直している。
『だがなフェリックス。それにしては少しばかり、プラントの規模が大きすぎるんじゃないのか。まるで――』
――四物の大規模実験でも行うような?
「……先生、それは――ありえませんよ。ですが大規模なのは仰るとおりです。正直に申し上げますと、環境課の情報処理をより拡大したい狙いがあります」
『……“あれ”よりもか?詳しく詮索せんが、現状で相当莫大なものだと記憶しているが?』
フェリックスは少し笑う。そして「話は変わりますが」と切り出す。
「月島先生、皐月さんを発見しました」
だがそれは、話題を変えてお茶を濁すための切り返しと言うより、そもそも先程の話そのものが――今この話題を切り出すための迂遠なお膳立てだったということに、統四郎は気付いた。『皐月をか。どこでだ?』そうして、なるべく落ち着いた声色で返事をした。
「モール跡地です。例のサヴァン症候群負傷者たちが発見したという……」
『重力ダムの底か。なるほどな……』統四郎は事件の情報を脇に投げ捨て、汚染区画のマップデータを広げる。『……どの程度保持されている?』
フェリックスは黙った。月島統四郎は居心地が悪く、思わずタバコに火を付けた。甘く濃密な香り。たっぷり二口ほど吸ってから、ようやっと答えが返される。
「……周辺にはダムに接触したことで崩壊した負傷者たちの残骸が肉の降着円盤を形成しています」
動画データが送信される。重力ダムのほど近くに状態観測のためのカメラが数機取り付けられているようで、異様な光景を刻々と映し出している。
「……その最外部、神経線維の束と癒着したコンクリート塊から……」
『……娘の意識モデルが検出されているんだな』
「はい」
意識モデルの検出。その言葉が意味するものは、希望のあるものとは程遠い。月島皐月は統四郎の娘であり、今彼が間借りしている小柄な肉体だ。月島皐月の脳そのものは、その断片は、今でも高次元物理学会の危険物保管庫にて冷却されている。
統四郎はサンダルに引っ掛けた脚を椅子まで上げて、オフィスチェアの上で胡座をかいた。そうして、肺まで煙を落とし、吸いかけのタバコをもみ消した。箱にはまだ、いくつかバニラの甘美な香りを放つ紙巻きが残っていたが、それを引き出しにしまい、灰皿をデスクの端へ追いやった。
「……わかった。観測装置を手配する。重力災害の兆候がないか注意深く記録し、対象を回収しろ」
『……はい』
フェリックスの平坦な声が電脳に響く。声のトーンはいつもと変わらない様子に思えたが、ほんの僅か、言葉と言葉の間、沈黙の時間が長く聞こえた。
2
「知的現象体に近接する実験も、実現可能なラインだよ」
月島皐月が嬉しそうに振り向く。
「技術的には可能ですが現段階では難しいでしょうね」フェリックスは眉尻を下げ、「意識を持つセンサーが必要です」そう返す。テオ細胞を使用した生体センサーは理論の上では実現可能とされているが、開発は遅々として進んでいない。細胞のサンプルが少なすぎる上、生体を維持するのに必要な環境管理も目処が立たない。――儀礼派の組織が信仰の偶像として保持するものをどうにか手元へ移すことができれば、あるいは。といったレベルだ。しかし。
「問題ない」月島は笑ってみせる。カーテシーさながらに実験衣の裾をつまみ「私がそのセンサーだ」そう言って鳶色の瞳を輝かせている。
「何ですって?」――フェリックスが声のトーンを上げる。銀縁の丸メガネを直して駆け寄るが、月島は気に留めず、こめかみを叩いてアニメーションの付いたポリゴンモデルを送信した。
「見たまえ」
ワインボトルの底のような、なめらかに尖る単色のモデル。「これは私の意識形状モデルだ」
データサイズが大きい。フェリックスは自分の軽度電脳に入れるのには難があると気付き、研究室のPCへと流した。「君に3Dデータを渡しておこう」
「これを?」
フェリックスはボトルの底を粗方受け取り、ARで手元にとったそれをしげしげと眺める。
「やめないか」今度は月島の声が高くなる。
「そんなに色々見るもんじゃない。裸を見られるよりもおさまりが悪いぞ」
咳払い。
「もし私が四次元で迷子になっても――これがあれば探すことができるだろう?」
そう月島は言う。
「なるほど」フェリックスは学会で同期が開発途中であったソフトウェア――意識モデル検出と照合のソフトウェアを立ち上げ、そこに月島のボトルの底を登録する。「携帯端末で確認できる、みまもりアプリが欲しいところですね」
「はは……子供じゃあるまいし」
……。
蛍光灯の明かり。
白い部屋。コンクリートに穿たれた番号。
スイムウェアのような実験衣。
「緊張するか?」
月島が問う。それは違う。フェリックスが行うのはあくまで観測であって、実際に四次元の壁へ手を触れる役どころではない。
「ええ――まあ」
「そうか」どこか嬉しそうな月島が手を差し伸べる。「いつものおまじないをしてやろう」
「いえ結構です」
即答する。
「そう言うな」しかし切り替えされる。「ほら」そうして、手指が合わされる。
「非科学的ですよ」
「そうでもない。握手はβエンドルフィンやオキシトシンの分泌も促すんだ。リラックスをもたらし、業務の遂行を妨げる過度な緊張を緩和してくれる」
「握手でですか?」フェリックスの眉が上がる。「抱擁によってもたらされるとされる伝承医学的な知識では?」
「そうだったかな」聞いて、月島は僅かに首を傾ける「じゃ抱き締めてやろう」
「いえ結構です」
即答する。
…………。
………………。
目を開く。シートベルトを外す。やけにしっかりとした合皮のシートは環境課のものではない。高次元物理学会の白いバンを後にして、フェリックスは防護服を着込んだ。
汚染区画の調査は複次元危班物保安班に任せるべき内容であり、指揮を担当するフェリックスが現地に赴くのは平時ならざる用向きと言えた。
だがフェリックスはどうしても今日、どうしてもここに来たかった。皇に環境変動値検出システムの一部を借り受けているのも、ある意味では今日この日のためにあったと言って間違いない。
幸い、これまでの調査で十分に錨は打ち込まれている。先日の防衛戦でも、ダム下底部までの重力汚染濃度は生命活動に支障ないと確認済みだ。汚染区画では何が起こるかは分からない。しかしフェリックスは軽度電脳であり、生来の重覚もなければ、重熱操作の習得も学生の時に機械補助を使ってようやっと身につけたものでしかない。それが返って都合のいいことだった。センサーを切れば重覚刺激による異常に見舞われることもないし、夜八のように危険な重力ファクターも有さない。
フェリックスは月島皐月とは違う。生まれつき十分な伸びしろを持ち、常軌を逸した親のもとで力強い教育を受けた彼女とは違う。もちろん、夜八とも、フローロ・ケローロとも、ガメザや瑠璃川ラズリとも違う。フェリックスは、ただ学んだだけだった。そして忘れないように、全てを棚へとしまい込んだだけ。距離計算のソフトウェアを電脳に仕込み、長い時間をかけて簡略化した式をサーバに折りたたみ、それをいつでも手に取れるように、インデックスを貼っただけだった。彼女もそうであってくれたなら、フェリックスは随分久しぶりに、そういう事を頭に浮かべた。
高次元物理学会のスタッフ二名を連れて、フェリックスは腐食したコンクリートの大穴へと潜っていった。浅い階層で一度ロープを使ったが、あとは浸水にだけ気をつけて、残った建築物の階段を、渡り廊下を、ただただ歩いていくだけで済んだ。ネロニカの打ち込んだ錨が、アートマの、グレンの記した地図が、それらはもちろん、フェリックスのためだけに残されたものではない。けれど彼の足取りの手助けとなっていた。
ショッピング・モールへと足を進める。防衛戦で潜ったルートは非常階段を用いるもので、足場の不安定な危険を伴う道のりだった、しかし周辺の地形データを持ち帰った結果、やや遠回りをして、モールの正面入口を利用するやり方で安全に底部へと向かう方法が発見されていた。フェリックスは時折信じられないほど大胆だが、普段はリスクを取る真似を好まない。彼が使うルートは正面入口のものと既に決められていて、完全に閉じているガラスの自動ドアをレスキューハンマーで叩き割り、まっすぐにモールを降りていく。
かつては明るい営みが、人々の生活があったであろうその場所だが、今や何の息遣いも残ってはいない。可愛らしく色分けされた大理石のタイルは、穏やかなトーンの差で上品に飾り立てられている。造花が腐り落ちずに残留していて、形そのままに折り取られて不自然な位置で浮かんだ柱を除き、建築物そのものにおかしなところは何もなかった。
異常なのは、光。
恐らく――“大規模環境変動”、一部の地域では“大戦”と呼称される重力災害があったであろうその瞬間、ここに居た人間たちは、氷漬けにされるように、縫い付けられるように、その形に閉じ込められた。
人の形をしたゲル状の柱が何本も立っている。そのシルエットの、恐らく頭部と思しき位置には、薄ぼんやりと青色の光芒が灯っていて、それが汚水のような黒ずんだ虹色のゲルに拡散され、鈍い色の照明としてモールを照らしている。
彼らの足元はほんの少し水にひたり、何か白く結晶化したものがこびりついていて、下層の人々ほどその結晶の割合は多くなっていた。高次元物理学会のスタッフがそれを少し削って取ってみたが、主な成分はケイ素、カルシウム、アルミニウム、硫黄となっていて、そのものに重力の汚染は残っていなかった。地下水に溶け込んだミネラルが100年の月日をかけて凍りついたものだろうとフェリックスは思い、スタッフの方は、遠目に見て塩の柱のようなそれを、ちょっと悪趣味ですね。と評したが、月島皐月ならこれを見て笑いそうだ。と思い、フェリックスは何枚か塩の柱を写真に収めた。特に愉快なものは小型犬を連れていたのではないかと思われる一個体で、犬の方の意識複雑性が明かりを灯すレベルではないために形状を保つことができず、丸きり衣服の方に吸収されて、犬めいた形状のドレスを着た婦人の像のように仕上がっていた。フェリックスは微笑んだが、学会のスタッフは顔を見合わせ、先へ急ぎましょうとフェリックスの肩を叩いた。
そうして、止まっているエスカレーターを階段のように降り、フェリックスはモールの底、大きく建築がねじ曲がって構成された、重力の勾配の中心地、ダムの最深へと降り立った。
スタッフをエスカレーターの方へと残らせ、いくつかの検出キットを立ち上げる。目の前に広がる肉の降着円盤は、ここへと到達した数名の“カーボンコピー”キャリアがダムへ引き込まれ、“四次元に不足する質量を三次元空間から吸引する”ための通路となっている。
これまでに数度起きている小規模な重力災害は、四次元空間と三次元空間の総質量の差によるものと考えられるケースが大半で、このダムの挙動はそれを穏当な形で防ぐもののように見て取れた。――しかし、吸引速度はかなり不安定であり、時折降着円盤が“吐き出されて”いる点が、危険であるように思われた。
四次元の向こう側で、何か……“カーボンコピー”を生み出したAIが『私に似ているもの』と称したものが、なだれ込んだ人間たちをめちゃくちゃにかき混ぜてこちらへ送り返している。
「皐月さん」
フェリックスは、その降着円盤の端、意識形状モデルと80%ほど合致する微弱な重力波を保持したコンクリートの塊へ声をかける。
「あなたはどう思われますか?向こうで見聞きした結果として、彼ら――知的情報体、知的に振る舞うエネルギーの正体を」
しゃがみ込み、膝を付き、フェリックスは丸いサングラスを直そうとして、自分が今防護服に身を包んでいることを思い出し、わずかに苦笑する、
「我々の思っていたとおり、あれは初期電脳から生まれ出たAI群なのでしょうか」
コンクリートの塊は返事を返さない。観測している重力波も、これといって反応はない。これは一度四次元空間へと飲み込まれ、全く別な形状で吐き出されただけの、月島皐月の影のようなものでしかない。フェリックスもそれはよく分かっていた。
「ずいぶん長い迷子でしたね」フェリックスは手を差し伸べる。
「迎えに来ましたよ」
そうして、握手をするようにコンクリート片を握り、一度息を大きく吸った。立ち上がる。携帯端末のアプリケーションから意識モデルの検出ソフトウェアをアンインストールし、フェリックスは来た道を引き返した。電脳の状態管理ウィンドウには、βエンドルフィンとオキシトシンの有意な増加は見られない。――丸サングラスの男の表情は、高次元物理学会のスタッフの目には、今までに見てきたものと、今朝顔を合わせたものと、何一つ変わらない。心底信用のならない、軽薄で無意味な笑顔が貼り付けられた、およそ科学者に似つかわしくない――詐欺師そのものの微笑みだ。