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あなたの畢生の物語(3)

4.

「おはよう「ござい「まあす!」
何も分からなくなった。と思った次の瞬間には、破滅的な目覚めの挨拶が聞こえてきた。
「さあ!「ゆっくりと目を開けて」聞き馴染みたくはなかったが、聞き馴染んでしまったそのバリトン。多重にささやくなめらかな口調。見なくても分かる。というか、見たくない。目覚めて最初に目にするものが、ロナルド・ハンティントンの恐ろしい顔面であっていいはずがない。
フローロ・ケローロは、なので、ちょっと右に顔を傾けてから瞳を開いた。結果的にはそれで良かったのだろう。開けた視界に飛び込んできた全ての色が、あまりにも研ぎ澄まされたクオリアの千の刃として、調整が終わったばかりのフローロの電脳へと一斉に突き刺さったからだ。幸い顔を倒していたおかげでただ壁とゼラニウムだけを見るにとどまったが、しかし殆ど色など無いはずの光景――観葉植物を一瞬目にしただけでも、それでも声を上げるのに充分な吐き気が猛烈にこみ上げた。

ロナルドは予期していたのか、すぐさま樹脂の袋をフローロの口元……マスクのない、小振りな唇へと押し付け、合成の唾液と胃酸が吐き出されるのを受け、それをタオルで拭った。
ですから「ゆっくりです「ゆっくり」
ロナルドが背中を抑える。しかし、口の中を駆け回る胃酸の苦さと酸っぱさに、味という未知の炎に脳が焼かれ、涙がぼろぼろと零れて、むせ返り、フローロは体を折り曲げた。手渡された水、その味も克明に分かる……胃酸よりは刺激が少ない。
わずかに落ち着いて、息も絶え絶えに、薄く薄く目を開けて見上げる。ロナルドの顔。こんな色だったのか。思いの外血色の良い……血色以外は全てが悪い。シャープで歪な輪郭の顔。瞳の色が赤いことを、今初めて知った。視界に未知のブレが煌めいて、また吐き気がこみ上げる……乱雑な格子模様、視界にまとわりつく蜃気楼。しかし今度は、なんとか耐えられる。
「ああ!「すみません「悪心を喚起する顔だったでしょうね」
「違う……違いますよ。ふ、…………」一瞬笑いそうになって、一応自覚があったのか。と思って、でもこの男に笑わされるのは本当に嫌なので。止める。

「先生「いえ、待って下さい「今はやめて差し上げて」
ロナルドは電脳で会話をしている。それをわざわざ聞こえるように口に出して。相手はアルファマリアだろう。何を止めているのか……わからなかったが、電脳使用者の白磁の聖母がわざわざ自分の病室まで現れたのを見て、ロナルドが“電脳の通信で私に話しかけようとする”のを止めたのだと、フローロは気付いた。――確かに、今色彩と味で涙に溺れているような自分が、次なる未知の刺激を受ければ、どうなっていたかわからない。
なるほど。と一瞥して、アルファマリアは退出する……また忙しいのだろう。歩みはあまりにも緩慢だが。

暫く経って、室内の通話機が鳴る。体を動かそうにも、それさえ難しい。普通全身義体化であっても動けるまでにそこまで時間はかからない――と開発の課員に聞いたように覚えているものの、この状況が普通の全身義体化でないことは、全く明確だった。ロナルドが機械を持ってくる。何から何まで、この男はアルファマリアとは対極的に、そこまで暇なのだろうか。ありがとうございます。と一応挨拶をして、それを受け取る。

「…………………………アルファマリアです……」間で分かる。つまり通話を持ちかけてきたのは直々にアルファマリアで、何か背後に物音をさせながら、術後必要らしい諸連絡を伝えてくれるらしい。「……これから…取材を受ける道中ですので……手短に……」どうやら物音は道路のそれで。車を運転しているらしい人物の声……聞き覚えがある。資料担当の、耳の大きな獣人ではないだろうか……彼女が道を訪ねてきているが、アルファマリアは無視して連絡を続けている……。

やはり手短とは思えない上品な間合いだったが、要約するとこういうことで、いわくフーケロの義体は重熱高感度な特殊仕様のもので、施術内容的に転写後6ヶ月はこの体を使用して欲しいとのこと。そして、取り替えは可能だがNLSFかピルグリムでなければ換装は行えず、かかる費用はフローロの使わず貯めたままの賃金でも干上がるほどのものであること。
……相模ブロックの住民が軒並み裕福そうに見えたのは、やはり慎ましい生活がどうと言わず、見た目通り裕福だったのではないかと疑わしく感じる。フローロは、この意識転写は義体換装までを含めたビジネスで、ここで採算をとっているな。と。そのように推察した。
……まさかそれを読み取ったとは思いたくないが、アルファマリアは付け足す。

「……あなたの転写費用は……気にしないで下さい既に……ロナルドが…その分の支払いを行っています…………」
え。と、声が漏れる。
「…………………………これは繰言ですが……義体転写後…に顔の造形に注文をつけてきたので追加料金も……支払ってもらいました…………」

ああ!違います先生!確かに彼女の生来の顔の造形はこれで完璧かもしれませんが……業務を進めてよく笑うようになったのです。ですのでこの皮膚の厚みが変わります。ほんのわずかに!
そんなことを言ったらしい。いや、携帯端末のカメラ機能で確認しても、どの位置のなんだか全くわからない。……触覚では、施術前の顔と寸分たがわぬようには感じるものの……自分の顔などそこまで克明に覚えているはずもない。

アルファマリアからの通話は既に切れていて、フローロは機械をロナルドへと返した。支払いに礼を言うつもりだったが、知ったような口ぶりで顔をいじったらしいという点が気になって、何も言えずにただ返した。また少し吐き気がする……ただ、ロナルドへの不快感からではない……いや、不快ではあったけれど。もはやよく分からなくなってきて、フローロはわずかに起こしていた体をまた寝台へ預け、頭までシーツを被った。
わからない。この体のことも、ロナルドも。ひとつ良かったことは、感覚と身体操作を除いて、つまり今の自分が自分であるというこの意識は確かに、連続したままのフローロ・ケローロであることだった。ツギハギの船かも知れないし、沼から起き上がった男かも知れない。だが――私は私。そう自信を持って言えるほどには、以前と変わらない思考の感覚を持つことができていた。

5.

リハビリテーションが始まった。フローロにとって施術は一瞬で、とてもあの間に10日も経っているとは思えなかったが、この歩くのすらままならない訓練の時間は対照的に引き伸ばされて長く苦しく感じた。視界のおかしなブレは消えなかったが、意識が新規の刺激に慣れていないだけかもしれない。
昼間は運動訓練、夜は電脳の機能を覚える訓練。夜が特に大変で、始めは通話を“取る”事もできなかった。そのうち見えない耳を向けるように自然な感覚で電脳通信に対応し、終わり際には一般ネット接続で光の格子の中を滑り、不自由なく調べ物に耽ったりできるようになった。

電脳を用いた情報戦闘はまだ相当難しいだろうと思われた。感覚で覚えることが苦手とは思わないが、フローロの適性はどうやらそこに開かれていないらしい。ただ、電脳間の通信接続、感覚共有、簡単な遠隔操作に関しては、ロナルドから何かするたびにいちいち褒められるほど、とにかく飲み込みが早かった。

潮風が行き交っている。太陽は薄っすらとかかった雲を通して、わずか柔らかく、異質なほどに白い、誰かが漂白したのかと思うような人工的な美観の砂浜を、舐めるように照らしている。
その青い海を見通し、鼻腔から飲み込む磯の味を噛んで、フローロは車椅子に深く座り直した。椅子の持ち手を支えているのはロナルドで、風で飛びそうになる真っ白なストローハットをすいと抑えてくれる。

「いかがですか「見たことがないでしょう?「とてつもなく「新しいでしょう?」
「そうですね……こんなに青が青いとは、思っていませんでした。確かに」

青が青い。口に出しておかしなことに気づくが、ロナルドは笑わなかった。良いことですと返事をして、同じ方向を眺める。
フローロは力を込めて立ち上がり、風を体で受けてみる。触感や温度は、前の体でもある程度ちゃんと捉えていた感覚だ。これは真新しくもない。――だが、色と味を感じながら、そのようにしてみることにした。やや覚束ない足取りで砂浜を歩き出す。白いサンダルが脱げ落ちる。気にせず歩く。どうせロナルドが拾ってくれている。

「昨日のムニエルよりもしょっぱいんですね。潮風は」
「ああ――「どうでしょう「あなたの感覚酔いを「避ける「ために「薄味にしましたから――「本来は、どうでしょう。ムッシュの作ったもので確かめてみて下さい」
気安く課員を愛称で呼んでくれる。課長が聞いたらこれ以上無いくらいムッとした顔をしそうだ。
このリハビリ期間では、NLSFのスタッフが忙しい時、ロナルドが代わりに料理も作ってくれた。というか、特に夜に限っては殆ど多くのリハビリを付きっきりでしてくれた。この点が全くフローロにとってはで、結構寒気のすることではあった。あったが、恐ろしいもので、2週間も続くとその状態にも慣れてしまった。どうしてこんなに手間をかけてくれるのか?と聞くのも、なんだか気持ち悪くて気が進まなかった。――し、まともな答えが返ってこないような気もした。

ロナルドは深呼吸をしている。確かに今日の潮風は塩の味がしますね。などと言っている。もう一度口を開く。
「堺さんも「転写でクオリアを手に入れられれば「ドラッグに頼らず済んだのかも「知れませんね」
何気なく口を開く。

クオリアを、手に入れられれば。
フローロが繰り返すのを聞いて、ロナルドは露骨に、本当に露骨に“しまった”という顔をした。口元を抑える。もちろん、片手で抑えてなんとかなるほど彼の口は少なくない。もしかすると演技かも知れないが、ロナルドは今まで見たことがないほどしどろもどろになっていた。ここで演技をしてまで口を滑らせるメリットはあまり想像できない。……ひょっとすると、本当に失言なのだろうか。

だとすれば、何だ?

手に入れる――というのは、持っていないからできることだ。クオリアを、持っていない。
堺斎核が持たぬクオリアを、質感を、感覚を埋めるためにドラッグに身を浸していた――というのならば。彼の過去に何があったのかは全くわからないし、それで何か感傷を覚えるはずもないが、何か。
彼が……そのほかに何をしても何も感じられないのだとしたら、その乾きを埋めるために?自身が生きているという感覚をそれだけに求めて?
自分の領土を広げ――?捜査権を拡大し――?ドラッグを収集し――……?
……………………………………

……………………………………

フローロは頭を振る。ロナルドがどこか手持ち無沙汰に握ったままのサンダルを受け取って、車椅子に座り直す。「戻りましょうか」そう声をかけ、砂浜を引き返す。

今覚えているこの感覚は、なんだろうか?怒りでも、悔しさでもない、胸騒ぎによく似た、居心地の悪い落ち着かなさ。
今までで一番長い距離を歩くことができたけれど、そんなことがどうでもいいくらいに、ここから別の場所に行きたくなった。いつもはうるさいロナルドが今は何も言ってこないことが、割合ありがたいことだと思えた。

6.

夜遅くになって、すっかり日課として刷り込まれていた電脳の操作訓練は昨晩で終わっていて、フローロはそれでも、覚えたばかりの感覚を確かめるように……昨日までの訓練の繰り返し、ニュースの流し見をしていた。
ちょっと疲れた頃、もうそろそろ眠ったほうがいい――リハビリテーションもじきに終わる。明日だったか、明後日かも知れない。頭上よりも上に知覚を向けてカレンダーを確かめ、うん、日付を超えているので、いよいよ明日だ。環境課に帰るのは……もしかするとまた少し手続きが要るのかも知れないけれど。いずれにしてももうじきだ。そんなことを考えだした頃――ショッキングな色彩、SE、アニメーションを伴って、ローカルの緊急ニュースが飛び込んでくる。
近隣ブロックで事故でもあったのだろうか?…………違う。ニュースの詳細を確かめる。相模ブロック……相模ブロック?

開かれるいくつものキューブ、360°の視界で確認する、投稿された全ての映像、画像。
きれいに舗装された道、立入禁止のテープ、アルミ押し出し式のなめらかな外壁。あの閑静な住宅街が、見間違うはずもなく見せつけられた街並みが、奥部に黒煙を伴って映し出されている。誰かの声が聞こえる。
闇に紛れる暗澹のローブを身にまとい、ごちゃごちゃとした部品を下劣に巻きつけた銃器を担いだ数人の男たち、銃器――形状の上ではそう見えるが、違う。ぎこちなく取り付けられた外付けバッテリーは、いつか見た何かの模造品……すり潰されるために生まれた脳と、それを用いた偽の杖。マルクトエディスのまがい物にまつわる事件、その研究所で見たシリンダによく似ている。

画像を拡大する。色合いの差に補正をかけて、動画部分の足りないピクセルを補間する……映し出される、ローブの肩に刻まれた威圧的なファイア・ダイヤモンド。第五元素。……。

ニュースの見出しはまだ何が起こったとは断言せず、何かしら火災が起きているという内容に留まっている。が、これは間違いなく、第五元素の――おそらく相模ではない、外部ブロックより襲い来た第五元素の、第五元素に対する略奪、ないしテロ行為だ。

――あまりに暮らしぶりが充実しているのを見て、第五元素の構成員でさえ、ここに四物炉重熱高濃度汚染遺物があって、それで豊かなのだと考える者もいます――アルファマリアの言葉が思い出される。
だが……例えばその重熱高濃度汚染遺物という単語が指し示すのが“自分”であったならば?それはありえない。と思いたい。例えばロナルドがこのタイミングで外部に情報を渡して誰かに襲撃させたとして、メリットが思いつかない。施術に関わったスタッフの中に外部と繋がりのあるものが――まだあり得る。アルファマリアは部下を完全に統率する気がないように見えた。しかし――

プロセスは、なんでもいい。目的はしかし、私ではないと思う。住宅地には何がある?
――重熱汚染のある土地は…エネルギー開発の面から見れば金山のようなものです――
通行禁止のテープ……被災区域。やはり、相模に来ていきなり目にした大火傷の男性は……このようなテロに巻き込まれたのではないだろうか?そしてそれがまた起こった?何もかも憶測で、そして何もかもが色彩を伴って頭の中で旋回している。――。……………………。
……………………。

そこまで考えて、少しだけ心拍数の上がった胸を押さえながら、フローロはシーツに顔を押し付け、電脳への注意も外した。
それが、どうしたというのだろう。
フローロ・ケローロにとって大切なのは環境課という場所であって、そこに生きている環境課員なのであって、たとえ管轄ブロックの中であっても、住人の生活のために全てをなげうって飛び込むほどのことではない。
相模など、来たばかりの知らない土地、知らない人間、ましてやロナルドの居場所で、彼は今でこそこのような具合だが、定義するならば自分の敵対者だ。そんな場所が……私とどんな関係が?

……。
……………………。

ばっ、と。シーツを一気に剥いで、白い薄手のワンピースが風でふわりとたなびく。
フローロは体をいちど丸めるようにした後跳ねるように飛び起きて、サンダルの足で、まっすぐに隣の部屋へと駆け出す。隣の――未使用の資料室、ロナルドが寝泊まりしてる部屋。

「ロナルドさん!」
らしくないことをしている。
本当に、おかしいことをしている。なぜそうしているのか、わからない。
ここに来て、ロナルドも、この街も、アルファマリアも、第五元素も、何もわからなかった。ずっと戸惑っていて、どう反応するべきか悩んでいた。けれど、まさか最後の最後に、自分のことすらわからなくなるだなんて、ちっとも思っていなかった。

ああ、体がこんなに敏感になってしまうと、心までそうなるのだろうか。
フローロは、ソファに毛布で横になっているロナルドに膝を乗せて肩を掴み、揺さぶって、
「ロナルド・ハンティントン!」「ええ?「はい、「あなたのロナルド・ハンティントンですが「ご用件のある方は「ピーという発信音の後に」
「ふざけてないで、行きますよ

NLSFもテロの知らせを受けたらしく、ところどころ照明が点いていく。
そういえば――このブロックでは端の方に1件しか軍警の施設を見ていない。全てドローンで防犯を行っているのかも知れない。あるいは、あまりに平和なのでそれすら無いのか、フローロは走りながらそう思い、そう思いながら自分が丸腰な事に気がついた。武器――庁舎……エントランス……

「こ「れ「を」
ようやく目が覚めてきたのか、彼もニュースに目を通したのか、ロナルドが小型の、カード状の、スライド式の小型の銃のようなものを握らせてくる。どこに持っていたのだろう?「です「至近距離にしか射程がありませんが「護身用として不足のない出力はあります」
杖――と言ったものの、起動に意識を必要とするが、式は入力済みのものであるらしく、特別な操作は必要ない類の代物のようで。何も考えず、走りながらトリガーを引いただけで、銃口付近に2cm程の屈折が巻き起こった。「それを押し付ければ「物体を引ききれます「武装解除に有用でしょう」どうだろう。武装解除には過剰なように見える……。が、相手は四物のテロリストだ。ありがとうございますと返事をする。

意識転写の施術が決まって何度歩いただろう、と思うほど見慣れてしまった、丁寧な舗装のきれいな道を走って、走って、たどり着く。通行止めのテープが破られている。民家が一軒焼けている――それはすでに処置が済んでいる。優れたインフラにはこのような時の対応も自動で行う機能があるのかも知れない。建築物は木材をあまり使用していないので、形は十分に保たれ、泡のような消火剤に塗れている。
奥だ。映像投影が主流の現代に珍しい、ビニールでできたトラディショナルなオレンジのテープは焼き切られたように端が縮んで、奥からは低い声が聞こえる。第五のテロリストたちは地面に何かを打ち込み、手にした携帯端末で何か話している――「ええ。ばっちり写っていると思います。これで充分――」

「環境課です。ただちに武装解除を行い、投降して下さい」
フローロは杖を構え、なるべく声を張ってローブの男たちへと警告を行った。
身動ぎし、彼らが振り返る。口元をスカーフで覆い、各々が一斉に銃器をこちらへ向ける。

「環境課って」「ああ……あれかな椛重工の区画の」「ああ……」
彼らは――口元は見えないが、目元は笑って見える。肌着みたいなワンピースにサンダルだけのフローロを見て、警戒の必要はないと思ったのかも知れない。銃をちょっと下げるものも現れたが、先頭の男が声を出す。「関係ない」「外部の者であっても、企画の進行の障害であれば排除しておこう」
即座に、片手で構えた大型の杖から細い――もはや針のような線状の熱の帯が吐かれ、フローロを捌くように地面を焼き迫った。

まずいと思ったが、フローロは気づくと宙を舞っていて、くるりと前へ回りながら、やや転がるように着地した。……テロリストの背後を取った形。

ロナルドがフローロを投げたのだ。彼は位置情報の誤認をテロリストに敢行したらしく、フローロもその影響を受けていて、ロナルドの位置がわかっていなかった。電脳通信が走る。ロナルドの意識アドレス――受け入れる。
時間差なく彼の感覚が共有され、フローロの感覚も彼に預けた。自分の意識の方を預けるのは初めて行ったが、そうすることが自然のように思われた。ロナルドは住宅地の監視システムへと既に接続を済ませているらしく、その分のデータも一気に表示された。
ちょっと前なら何がなんだか分からなくなってしまうところだろうが、フローロはロナルドの視野に身を委ね、彼が何を見ているのか、何を行うつもりなのかを、自分がそう思い描いているのと同じように、ぴったり寄り添って把握した。ロナルドの視覚はとにかく異常で、重熱の起動に関しては式の発動に先んじて、シリンダから伸びる電子回路のような熱の軌跡が銃口へと到達するまで克明に、金属を透視しているかの如く克明に見て取れた。だから、彼の筋肉の動きも意味がわかる。今たわんで、そして伸び上がる。

ロナルドは跳躍する。恐ろしく長く、体操選手のようにしなやかな両手・両足が、翻るリボンのようにうねって、テロリストの頸部、鼻部、眼球、杖を握った指先など、肉体の先端部位を狙って執拗かつ徹底的な暴力的打撃を叩き込んで――素手?!護身用の杖は使わず、骨太で逞しいただの掌で叩きのめしていく。
戦って分かっているが、ロナルドの筋力は、確かにアスリートに匹敵するレベルではあるものの、決して狼森や、ましてや宗真童子、ガメザのような怪力には及ばない。あくまで鍛えた一般人のそれだ。しかし……彼は周囲のセンサーを全て視界として用い、防ぎようのない位置を的確に攻撃している。そして――それはフローロも同じくそうすることになる。

フローロは姿勢を低くして、指先、腱をかききるように杖を滑らせる。不思議なことに、視界を阻む格子、物体の表面を這う陽炎へと沿うように杖を動かすと、なお一層切れ味鋭く、杖もシリンダも簡単に切り落とすことができた。
そして、5人いるテロリストはしかし典型的な儀礼派であるようで、彼らは電脳の使用に全く長けておらず、式を組むことにしかそれを使っていないであろうことがありありと見て取れた。フローロには見える。彼らがどこに銃口を向けているのか、どのように次動きたいのか。
本調子でないはずの、使い始めたばかりの肉体は……昨日まで歩いた距離を今どんどん更新しているような、生まれたての全身義体だが、むしろここに来てようやっとぎこちなく使えるようになってきた。そのくらいなのに、こんなにも丁寧に攻撃が捌ける。

金属音。
意識を向けると銃口が傾いている。体をどう捻っても間に合わない、躱せない位置。しかし伸ばした手を――ロナルドがしっかと掴み、抱き上げ引き寄せて、彼の革靴が今度は杖を蹴り上げ――がら空きになった男の手先を、スカーフを――フローロの杖がすっぱりと切り裂く。驚いた男の顔――刈り込んだ金髪、指のような細い角。
聞いてないぞ!こんな妨が――」男のつぶやきは不快なクリックノイズの振動と、タンパク質の焦げた香りで打ち切られる。

テロリストたちは武器を奪われ、あるいは身動きが取れない状態で、戦闘を継続できないところまで追い込まれ、あるいは逃げ去り、あるいはうずくまって、そのようにフローロとロナルドの介入は終りを迎えた。
こうして実戦に使用してみて分かった。伝え聞いた――例えば国分寺の戦闘能力のあまりの高さ、攻撃の通用しなさ。相手が本物の戦闘のプロフェッショナル――No.966とイオで、聞く限りの接敵内容であるのは疑問だったが――電脳の使い方を正しく把握している限り、生身の人間がこの情報量の差を、この共有量の差を、これを埋めることは相当困難だと思われた。それほどまでに、見えている量が――異なる。
「悪は…………「去った!!「この街の平和は「ロ「ナルド!「ハンティントンが「完璧に防衛しましたよ!!!」などと考えていると、ロナルドがうるさくなり始めたので、もう寝ている人もいると思うから、静かにして下さいと注意をする。

……ロナルドが後片付けをしているのを尻目に、フローロは細い角の男が膝立ちで停止しているのを見とめ、何か気になって、顔に指を当てる。何気ない動作。そしてはっとした。
…………作り物の顔。シリコンのマスク。
…………例えば。この位置に火傷があったとして。そうすると……どうだろう。見覚えが……あるような気がする。
初めてここに来た日――電気事故の被害者。NLSFの、アルファマリアの患者。

フローロは通報が終わり近くまで歩いてきたロナルドへ杖を返し、自分が飛び出してきた大きなビルを眺めた。