#0093【平将門と天慶の乱(日本、10世紀中盤)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

京の中央政界を藤原氏が完全に牛耳るようになると、中級貴族や末端皇族たちは地方に活路を求めるようになります。

平安京を作った桓武天皇の曾孫に高望王という人物がいました。彼は臣籍降下して平高望(たいらのたかもち)となり、関東に赴任して土着します。この高望の孫として、平将門(まさかど)が出てきます。

高望は多くの子どもがおり、彼らは互いに関東での開墾事業に勤しみます。将門の父は早くに亡くなったため、その土地を兄弟(将門からみたら伯父)たちに狙われてしまいます。931年に一族間での内紛が起きますが、武力に優れた平将門は伯父たちの勢力を一掃し、935年には伯父の一人である平国香(くにか)を殺害しました。

伯父たちと国香の息子である平貞盛は、京の朝廷に将門を訴えます。将門は都に召喚されて詰問されますが「先に無法行為を仕掛けてきたのは伯父たちだ」と主張し、お咎めなしで関東へと戻ってきました。

この時の朝廷トップは藤原忠平(菅原道真のライバル藤原時平の弟)です。将門は青年期に上京して忠平に仕えていたことも一因となって将門有利の裁定結果となりました。

将門は関東に戻ると、土着勢力たちの声望を一身に集めることになります。朝廷に反抗する人物たちも中にはいましたが、将門は構わず受け入れていきます。

将門の時代は、中央貴族たちと土着勢力たちとの間で争いが絶えませんでした。中央貴族たちは権力を使って、土着勢力が汗水たらして開墾した土地を奪おうとしており、それへの反発や不満がたまっていました。さらに都で出世が見込めない中級貴族や末端皇族などが東国へと流れてきて、将門のところに集まってきます。

将門が受け入れた人物の中には、国府(県庁)から指名手配されている人物がおり、その人物の引き渡し要求がきます。この要求を拒否し、逆に将門は今の茨城県にあたる県庁を攻め落としてしまいました。公然と朝廷に反旗を翻したことになったため、将門の周囲はいっそ関東全てを奪ってしまいなさいと助言します。

関東一円を攻め落とした将門は、八幡大菩薩のお告げを受けたとして「新皇」を名乗ります。939年のことです。

しかし、勢いで挙兵したため、確固とした政治理念も政治機構も持たない将門の反乱は、都から派遣された藤原秀郷と平貞盛(将門の従兄弟)によって940年には鎮圧されました。将門も流れ矢にあたって戦死します。

ちなみに将門の首塚は大手町に残されています。首塚に手を出そうとして過去に数々の怪奇現象が実際に起きており、現在に至ってもなお大切に守られています。

将門を討った平貞盛の一族は繁栄していき、貞盛の孫の孫の孫として平清盛が出てきます。武士出身で初めて太政大臣になります。

将門が東国で反乱を起こしていた同時期に西国では四国を中心に藤原純友(すみとも)が反乱を起こしますが、こちらは源経基(つねもと)らによって941年に鎮圧されました。

純友を討った源経基の一族も繁栄し、経基の孫の孫の孫の孫として源頼朝が出てきます。鎌倉幕府の初代将軍となります。

平将門と藤原純友の乱を合わせて「天慶(てんぎょう)の乱」と言います。中央貴族に対して土着勢力が大規模な反乱を起こした最初の事例ですが、土着勢力が未成熟であったため不満の爆発で終わってしまいました。

土着勢力が武士階級へと成長し、権力を握っていくためには、まだ多くのステップが必要だったのです

東国の反乱を治めたのは平清盛の祖先で、西国の反乱を治めたのが源頼朝の祖先だというのは少し不思議なものを感じます。

なぜなら、後に源氏が東国を基盤として、平氏は西国を本拠とするからです。日本の歴史は二転三転しながら動いていくことを、この逆転現象からも感じてしまいます。

以上、今週の歴史小話でした!日本通史シリーズ続きはまた来月です。楽しみにしていてください。

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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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