#0193【あくまでも中継ぎとしてのトップの座(徳川綱吉①)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は、徳川幕府の歴代将軍の中でインパクトの強い「生類憐みの令」を出した徳川綱吉を全三回に亘って紹介していきたいと思います。
家康以降に将軍には以下の順序で就任していきます。
家康の息子:徳川秀忠(二代将軍)
秀忠の息子:徳川家光(三代将軍)
家光の息子:徳川家綱(四代将軍)
徳川家綱は跡を継ぐ男子不在のままでこの世を去ります。
そこで将軍に就任したのが徳川綱吉です。
彼も家光の息子であり、家綱の弟にあたります。
家光には家綱と綱吉以外にも綱重という息子がいました。
兄弟順は、家綱・綱重・綱吉です。
この兄の綱重も、綱吉より前に亡くなっていたため、綱吉に将軍位の御鉢が回ってきました。
実は、徳川将軍家にはもう一人の候補がいました。それは綱重の息子である綱豊です。
家綱の甥っ子が継ぐべきか、弟が継ぐべきか。
どちらが正しいのかというのは、一概にはいえないと思いますが、徳川家綱が亡くなった時点においては徳川将軍家の中から跡を継ぐとしたら、家綱の弟である綱吉一択だったといえます。
なぜか。
徳川家綱は男子がなく世を去っていますが、彼の子が生まれてくる可能性が残っていたのです。
家綱の妻妾の一人が妊娠していたのです。
もし、彼女が家綱の息子を産んだとしたら、その子が将軍位を継ぐべきとなります。
そうなると綱吉という叔父から、甥への将軍位の移譲は出来ても、家綱の甥っ子である綱豊から、その従兄弟(しかも父の「兄」の子ども)への移譲は逆縁となるため、できないのです。
徳川綱吉は、あくまでも中継ぎとしての役割を担って将軍に就任したのです。
しかし、結局家綱の子どもは水に流れてしまったため、徳川綱吉が将軍としての地位を固めます。
初代徳川家康は、将軍の資質に問題があっても政治がしっかりと動くように二代将軍以降の将軍は実質お飾りとして、老中という役職による稟議で政治を動かすように仕組を整えました。
将軍は、稟議書にハンコを押すだけの存在となったのです。
綱吉には理想がありました。将軍という天下に号令をかける地位となった彼は、その理想を実現するために初代徳川家康が作り上げたシステムに挑戦していくことになります。
以上、本日の歴史小話でした!
(続き:No.194【ワンマンになるには仕掛けが必要さ(徳川綱吉②)】)
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