#0048【乾隆帝(中国、18世紀後半)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週最後は清の最盛期を現出した乾隆帝(けんりゅうてい)です。
乾隆帝は清にとどまらず「中華帝国」としての最盛期をもたらした人物とも評価できます。秦の始皇帝以来脈々と続いてきた中華帝国に咲いた最大の花といえるでしょう。
彼は康熙帝・雍正帝時代に培われた帝国の基盤を使って、清の領域を拡大していきます。自ら10回の遠征をおこない、全てにおいて大戦果を収めたとの主張を込めて「十全老人」と号します。
このときに「新疆(しんきょう:新しい領土という意味)ウイグル」「チベット」「モンゴル」も清の直接統治が及ぶ範囲となり、朝貢国(属国のようなもの)としては「朝鮮」「琉球」「タイ」「ビルマ」「ベトナム」などが連なることになります。
現在の中華人民共和国は外モンゴルを除く清の直接統治領域を継承していると言えます。(外モンゴルはモンゴル人民共和国として独立。)
また、尖閣諸島問題や南沙諸島などの領土問題には中国の海洋進出への思いがあると同時に上述した過去の朝貢国の領域に触手を伸ばしているという思想的な背景も見逃せません。
現代の中国の領土・領域観念については、乾隆帝の業績を抜きにして語ることは出来ないのです。
乾隆帝は1795年に在位60年で自ら退位して息子に皇帝位を譲ります。これは尊敬している祖父の康熙帝の在位年数を超えないための配慮でした。位は譲ったものの実権は握り続け院政を敷いて1799年に死去しました。
名君として数々の実績をあげた乾隆帝ですが、祖父・父と違い派手さを好んだ性格もあり、国家財政の悪化を招きます。晩年になるとおべっかを使う佞臣を重用して国政に混乱をもたらすなど負の遺産も残しました。
さらに乾隆帝時代に貿易港は広州に限るとしたことから、自由貿易を求める西欧列強と軋轢が生じ、やがてアヘン戦争へと繋がるひとつの理由となりました。
1842年に起きたアヘン戦争でイギリスに敗れた清は、緩やかに衰退していき1911年の辛亥革命を受けて1912年1月1日に王朝としての役目を終えました。
アヘン戦争以降の中国史については別途取り上げたいと思います。
以上、今週の歴史小話でした!
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