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#0130【源義経と源氏の大勝利(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
月初の日本史通史シリーズです。

前回の同シリーズNo.117では平家政権に対する不満が巻き起こったところまで取り上げました。

前回はこちらから

今週は武士が天皇家・貴族の枠組みから外れて武家政治を始めていく過程を追っていきます。

平家政権は、史上初の武士による政治でしたが、その中身は平家の藤原氏化という貴族路線の延長でした。
従来の政治形態に則していたため、これまでの貴族のポジションに平家が収まっただけであり、地方の一般武士たちの不満は解消されませんでした。

彼らの不満は、自分たちが精魂賭けて耕した土地の私有を認めて欲しいというものでした。天皇家や大貴族だけに認められていた、正式な土地の所有者になりたい。これが彼らの望みでした。

農業を行うにあたっては、水利権や境界決めなど多くの揉め事が起こりえます。そこで所有権を主張するために武士たちは大貴族たちに名義料を払ってでも、名義を大貴族にして実質的には現地に駐在して所有権を保持するという形態を取ります。

この問題を同じ武士階級出身である平家が変えてくれるかと思いましたが、その期待は脆くも崩れてしまい、平家への不満が爆発することになります。

きっかけは天皇家内部の内紛に基づく以仁王(後白河法皇の息子)による命令書でした。以仁王は皇位継承争いに敗れて鬱々とした思いを抱いていおり、彼の甥にあたる平家の血をひく孫がいなければ、その後ろ盾の平家がいなければという思いを強めていきます。

遂に各地に落ち延びている源氏に対して反平家の兵を挙げるように命令書を出します。そして彼自身も京都中央に生き延びた源氏らとともに挙兵をします。
彼の挙兵自体は失敗に終わり、戦死します。呼応した奈良の寺社群と大仏も焼亡してしまいました。1180年のことでした。

平家はその力の強大さを序盤では見せつけます。
以仁王の命令書に従って挙兵した伊豆の源頼朝も命からがら逃げ延びました。

しかし、平家への反感も強く関東や奥州(東北地方)、甲信越など元々反平家の機運が高かったところはこれを機に独立していきます。
それでも京都も含めた西日本は平家が盤石に抑えており、その力に翳りはないものだと思われていました。

しかし、1180年の以仁王の挙兵からわずか5年後の1185年、平家は山口県の壇之浦で滅亡してしまうことになったのです。

海を根拠地にしていた平家が海戦で惨敗を喫するとは考えにくいことでした。

あまりにあっけのない滅びは当時の人々に大きな影響を与えました。
この思いが、平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。」という一節につながり、仏教が唱える全てのことは「無常」変わりゆくことを日本人が実感した瞬間でもあったといえます。

源氏の大勝利の陰には、一人の英雄がいました。彼の名を源義経といいます。

彼は騎兵戦術・奇襲攻撃の天才でした。鹿も通らない崖から平家を攻撃したり、嵐に船出をして奇襲攻撃を仕掛けたり、壇之浦では非戦闘員と考えられていた漕ぎ手を射殺したりして、徹底的に平家を追いつめ、滅亡させたのです。

日本史に彗星のごとく現れた義経は、美男子とも伝わっており当時まだ二十代の若さも相まって京都の人々から大歓声をもって迎え入れられました。

義経に我が世の春がやってきますが、その栄光もまた短いものとなるのでした。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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