#0101【吉田松陰(日本、19C前半)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今回は吉田松陰を取り上げます。
松下村塾の主宰者として、幕末から明治維新にかけて活躍した人物を育てたことで有名です。(最初の総理大臣伊藤博文など。)
彼は1830年に長州藩(山口県)に生まれます。
幼少期から成績優秀で名前を馳せて11歳で藩主へ御前講義を行い、19歳で藩校師範(大学教授相当か)になりました。
松陰の専門は日本流軍学や中国古典兵法です。しかしアヘン戦争で中国が西欧列強に敗れたことを知ると、西洋式の兵学を学ぶ必要性を感じ、九州の平戸に赴きます。
さらに、1853年にペリーが来航すると、西洋の先進性を目の当たりにした松陰は海外留学を決意します。当時はまだ鎖国状態。海外渡航は死罪にあたる重たい罪でした。
松陰は、長崎からロシア軍艦に乗り込もうとしますが失敗します。めげずに翌年1854年にペリーが再来すると、再度、試みます。
日米和親条約の締結に至ったペリーは、幕府との摩擦を避けるため、松陰を下船させました。
幕府側に密航企図の証拠が渡る前に松陰は自首します。長州藩に移送されて野山獄に収監されました。ここで、松陰は囚人相手に講義を行うなど、生来からの教育者としての姿勢を見せます。
その後、1855年に出牢を認められ、実家での禁固刑になります。
近隣の子弟を自宅に集めて私塾を開いたものが、いわゆる松下村塾となっていきます。塾の特徴は一方的な講義ではなく、松陰も輪に入って塾生たちの議論に重きを置きました。
歴史の授業ではテキストとして『日本外史』が用いられたといいます。
松下村塾は、木造瓦葺き平屋建ての50平方メートルほどの小さな建物です。広いとはいえない塾舎から約80名の俊英たちが幕末から明治維新にかけて羽ばたくことになります。
1858年に日米修好通商条約を、天皇の許可なく幕府が調印したことに憤激した松陰は、幕府重臣の暗殺計画を目論見ますが、弟子たちに止められて翻意します。
幕府の権威向上のために井伊直弼が反幕府運動家たちを弾圧する安政の大獄が始まると、松陰も江戸に送致されることになりました。
この時点では、暗殺計画が漏れたわけではなく、反幕府運動家との交友関係が問題視されたものです。当初、幕府は彼を流罪に留めようとします。
しかし、申し開きの場でなんと吉田松陰が自ら「幕府重臣に対する暗殺を企画していた」ことを暴露しました。そして、自分には流罪ではなく、死罪が妥当と主張します。
この一連の流れに井伊直弼は激怒し、松陰の主張どおり、鈴ヶ森の刑場で斬首となりました。享年30歳。
黙っていれば、死罪は免れたものの、自らの志がそれを許さなかったのでしょう。彼が詠んだ和歌に
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
プライド高き堂々たる死だと思います。彼の亡骸は、罪人墓地に打ち捨てられましたが、のちに名誉回復がなされてからは改葬され、現在は東京世田谷の松陰神社にて眠っています。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
松陰が獄中で弟子たちにしたためた『留魂録』の冒頭に記された和歌です。
以上、本日の歴史小話でした!
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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