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#0226【南北朝時代、凋落する権威とモラル(日本史通史)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は月初の通史シリーズです。
遂に後醍醐天皇を中心とした建武政権は、崩壊します。足利尊氏が京の都に攻め込んだことで、後醍醐天皇は比叡山へと逃れます。
(前回No.216【理念先行・現実無視の結果(建武新政の崩壊、日本史通史)】)
尊氏が京都を占領したものの、当時の京都は日本を代表する都市であり、人口密集地。生産拠点ではなく消費地であるため、大勢の軍隊を養うだけの食べ物がありません。
京都は盆地であるため、包囲されてしまうと一気に流通網が麻痺してしまいます。
戦争において、兵站線(ロジスティクス、物資の補給路)の維持は重要です。人間、食べ物が胃袋に入らないと力が出ませんから。
京都を占領したことで安心した尊氏軍でしたが、ライバルの新田義貞やゲリラ戦略の達人楠木正成などが京都を包囲すると、尊氏たちは干上がってしまいました。
そこでボロ負けを喫して、尊氏たちは西へと逃れるのです。後醍醐天皇は京都へと舞い戻り、「やはり朕(天皇の自称、私)の天下は揺るがない」と考えます。
しかし、尊氏は西に逃れた後、九州で力を蓄え、後醍醐天皇派の武士たちを倒して自派を増やしていき、西日本をしっかりと押さえます。
天皇の権威・威光よりも武家の足利尊氏に共感する武士たちが多かったことを意味します。
西日本で勢力を拡大した尊氏は、後醍醐天皇とは別系統であり、後醍醐天皇が隠岐の島に流されている間に天皇となっていた光厳上皇を味方につけます。
後醍醐天皇vs足利尊氏の構図から、後醍醐天皇vs光厳上皇という天皇家の争いへと構図を変更したのです。
この結果、大義名分を得た尊氏軍は、近畿に迫ります。
楠木正成は尊氏との和睦、乃至は後醍醐天皇に再度京都から脱出してもらって尊氏を京都にわざと引き込んで戦うことを主張しますが、どちらも拒否されました。
特に後者は「何度も天皇が京都から動座するのはいかがなものか」と貴族からクレームがついたからです。
楠木正成は多勢に無勢を承知で、京都郊外の湊川の戦いで尊氏に挑みますが、敗死。結局、後醍醐天皇は京都から比叡山へと逃れました。
京都を再占領した尊氏は、光厳上皇の同母弟を光明天皇として即位させました。三種の神器はいまだ後醍醐天皇の手にありました。
比叡山を包囲した尊氏軍の前に後醍醐天皇は、和睦して神器を引き渡しました。その後、京都内に幽閉されましたが、奈良県吉野に脱出。
光明天皇に引き渡した三種の神器は偽物であると宣言して、後醍醐はいまだに自分が天皇であることを主張します。
ここに、京都の北朝(光明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)の二つに完全に天皇家が分裂、血みどろの抗争が続く南北朝時代となりました。
今回の話は全て1335年から1336年の間の動きです。
以上、本日の歴史小話でした!
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