#0170【江戸時代の財政再建と教育改革(池田光政)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。江戸時代の名君特集。第二回は池田光政を紹介します。
池田光政は1609年に生まれ、1682年に死去する江戸時代初期を駆け抜けた人物です。
光政の祖父は、池田輝政といい姫路城を現代に残る形に大規模改築しました。また、池田輝政の後妻は徳川家康の実娘だったことから、徳川幕府からも池田家は一目を置かれていました。
光政の父は、輝政の前妻の息子であったため、徳川家康と血の繋がりはありません。また、光政の母は徳川秀忠(家康の息子、二代将軍)の養女でした。
池田光政自身、徳川家との血の繋がりはなかったものの、1613年に徳川家康への謁見が認められています。
1616年に父が死去すると、姫路藩42万石を受け継ぎますが、翌年に幼少を理由に鳥取藩32万5000石へと転出させられます。これは山陽道の要である姫路城を任せるには幼過ぎるとのことでした。
鳥取は、戦国時代において小領主が混在しており江戸時代初期においては統治が難しい土地でした。藩主の命令がなかなか行き届かないため、年貢(税金)の徴収にも苦労していました。
さらに元々42万石相当だったのですが、リストラはせずに鳥取へとやってきました。企業に例えれば売上、粗利が減った中、人員を減らさなかったのです。
人員を減らさなかった代わりに、各家臣の俸禄(給与)を元の6割に抑えて人件費を削減し何とかヤリクリをしました。
光政も成育し、やがて鳥取藩の財政状態も安定していきましたが、1632年に岡山藩主だった叔父がなくなります。
この叔父は、光政の父とは違い、祖父輝政の後妻(家康の実娘)との間の息子でした。叔父の息子はまだ3歳と年少でしたが岡山藩31万5000石の相続を認められました。
光政のケースと同様、山陽道の一部である岡山を任せるには若すぎるということで、光政の鳥取藩と交換が行われました。
光政は苦労して安定させた鳥取から岡山へと移ります。これは同じ池田家ですが、家康の血を引く系統を鳥取32万5000石とし、家康の血をひかない方を岡山31万5000石と家格を調整したかったからだとも言われています。
以降、それぞれの系統は幕末まで、鳥取と岡山を治めることになります。
さて、光政は岡山に移動してから、後に名君と呼ばれるようになる多くの事業を営みます。
干拓事業・治水といった農政から始まり、さらに日本最古の「庶民向け」の学校としての閑谷学校(講堂は、現在国宝)を開設し、教育の充実を図ります。
特筆すべきは、この庶民の学校を独立採算制として運営させようとし岡山から池田家が居なくなったとしても存続できるようにしようとした点です。
宗教面においても儒学を興隆させ、神道を奨励しました。
庶民の住民登録は、お寺が行っていたものを岡山藩では神社が行うように変更を進めました。
神仏習合といって、神道のカミさまと仏教のホトケさまは同じものだとする考えが広くあり、現代においても日光東照宮(神道)には日光山輪王寺(仏教)が隣接しています。
光政は、元々別であった神道と仏教をキッチリと分けるべきだと考えて更に日本古来からの神道を重視する姿勢をみせました。
これは多少、庶民の生活を混乱させましたが、光政の政治は総じて岡山を安定させていき、江戸時代初期の名君の一人に数えられるようになりました。
以上、本日の歴史小話でした!
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