#0222【徳川家康の恋愛モットー(家康の妻・愛妾たち)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は戦国の女性特集ですが、最後は徳川家康が愛した女性たちを紹介します。
徳川家康は、75年の生涯において正妻を2人、側室を20人弱、抱えました。
子どもは男子だけでも7人の女性との間に11人生まれました。有名どころを挙げます。
長男、松平信康(織田信長の娘と結婚、切腹死)
三男、徳川秀忠(二代将軍)
十一男、徳川頼房(水戸徳川家の祖、水戸黄門のお父さん)
家康は、女性の出自にこだわらず、後家好みだったと言われています。戦乱の激しい時代、夫に先立たれた女性も多くいたのでしょう。また、自分の天下を固める上でも血縁関係の大切を感じ、精力的に自分の愛妾たちとの間に子どもを成していきます。
ちなみに徳川頼房は1603年に生まれています。三代将軍となる徳川家光(秀忠の息子)は1604年生まれです。甥と叔父がほぼ同い年という勢いです。
豊臣秀吉が、信長の姪にあたる茶々(淀殿)など、名家や高貴な身分の女性を好んだことと好対照です。貧農出身であった秀吉のコンプレックスの裏返しでしょうか。
家康は、深窓の令嬢よりも実務もこなせる秘書的な女性を愛します。
前回の浅井三姉妹で、大坂冬の陣で講和を取り仕切った阿茶局(あちゃのつぼね)は、家康の寵愛を受けて六男松平忠輝を産んでいます。また、家康の死の枕頭にも侍っています。
現代において、大企業の社長の秘書と社長が愛人関係であったとしたら社会的非難を免れません。ただ、阿茶局は、実質的には家康の正妻だったと言えるでしょう。
家康は、最初の妻で正妻であった築山殿との関係に若い頃大いに悩みました。築山殿は今川義元の姪でした。
今川義元は、現在の東海地方を領していた大大名で、室町幕府将軍家である足利家とも血縁関係にある名家だったのです。
家康と築山殿の間は、一男一女に恵まれたものの、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られると関係が悪化します。家康は、今川家を見限り、信長と手を結んだのです。
築山殿との間の長男「信康」の名前も「信長」プラス「家康」で名付けます。そして、その妻に信長の実娘を選びました。
築山殿は、今川義元の姪であることがアイデンティティの一部でした。それを完全に踏みにじられたように感じたのでしょう。最終的に彼女は家康と対立していた甲州武田家と裏で通じた疑惑をもたれ、暗殺されました。
家康はこれに懲りたのか、正妻を置くことを避けて、名家出身の女性とも関係を持たなくなっていったのです。
阿茶局は、愛人を秘書にしたというよりも、妻を常務にしたというイメージが合うと思っています。
そんな名家嫌いな家康も、天下を取る前後に一人の女性に溺れます。その女性の名をお梶の方といいます。二人の間には、娘しか生まれませんでしたが、家康は戦場に連れていくほど、このお梶の方を溺愛するのです。
お梶の方は関東の名門出身の1578年生まれ。家康が関東入りした1591年に家康の側室に入ったと伝わっているため、13歳。家康は当時、48歳。年の差35歳です。
家康がお梶の方を溺愛した理由は、その美貌だけでなく、倹約家ぶりや勝気な性格などもあったと言われています。
経済観念など、性格が合うことが男女の関係においてはことさら重要であるのは、英雄も一般家庭も400年後の現代も 変わらないところだと感じます。
以上、今週の歴史小話でした!
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