#0246【朝鮮の太祖李成桂(朝鮮半島の王)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は朝鮮半島の歴代王朝の初代王様を紹介します。
今回は朝鮮半島最後の王朝となった李氏朝鮮の創業者である李成桂です。
朝鮮民族・朝鮮半島といった現代における日本語表現や韓国語表現に大きな影響を与えている国名「朝鮮」は、李成桂が国王となったときに、中国よりも東にあることから「朝が鮮やか」と名付けました。
朝鮮の前王朝である高麗は、中国がモンゴル民族の支配下に置かれるときを同じくしてモンゴルの侵略にあいます。
ソウル近郊の江華島に立てこもり、海を挟んでモンゴルに抵抗しますが、やがて屈服することになります。
屈服した以上は、モンゴルの力を利用して国の安泰を図ろうと積極的にモンゴルの風習を取り入れたり、モンゴルと共に日本に攻め込んだり(元寇)します。
しかし、モンゴルへの追従は海外派兵などで高麗の国力を削ぐことに繋がりつつ、更に高麗支配層と民衆との間に精神的な乖離が生じ始めました。
それに加えて、朝鮮半島沿岸部などを中心に倭寇(日本人に限らず、高麗の民衆もいた海賊)が荒らしていく事態になります。
モンゴルも力が弱まると中国国内で反乱が置き、モンゴルの勢力は万里の長城の北に追い払われていきました。高麗もその様子をみて、1356年にモンゴルから離反し、奪われた領土の奪回を始めます。
そういった倭寇対策やモンゴルとの戦いで頭角を現したのが、李成桂です。実は彼の出自はよく分かっておらず、様々な説があります。それだけ当時の朝鮮半島は、朝鮮本土や北方遊牧民、中国からの移民などが交わっていた交通路だったとも言えます。
1368年には、中国本土は明がモンゴルから奪い返し、モンゴルは北方に追いやられます。李成桂も高麗軍の一員として、モンゴルとの戦いに励みます。
追いやられたとはいえ、モンゴルの力は強く、高麗との間で激しい戦いが続きます。また、モンゴルや高麗とも違った独自路線を目指す勢力もうまれて、その討伐も必要となっていきます。
李成桂率いる軍隊はそういった戦いで戦果を誇り、権力を握っていきます。1392年に遂に高麗王から禅譲(名目上、王位を平和裏に譲ってもらうこと。実際は脅迫)を受けて、朝鮮半島の王となります。
明に朝貢して、李成桂は初代朝鮮国王となりました。
その後、1408年に74歳で死去することになるのですが、晩年は失意のうちに過ごします。
なぜなら、彼の後継の座を巡って息子たちが血で血を流す争いを繰り広げたからです。
李成桂は、自分の八男に継がせようとしましたが、建国にあたって尽力した年上の息子たちがそれに反発。1398年には五男が反乱を起こします。八男は殺されてしまい、李成桂も次男への譲位を強制されます。
しかし、混乱はこれで終わらず今後は1400年に四男が不満を爆発しますが、これを五男が鎮圧。最終的に李成桂の跡を継いだ二代目の次男から、五男に王位が譲られることになりました。
その後も引き続き、混乱が続きますが五男の手腕によって鎮静化。この一連の後継者争いを「王子の乱」と呼び、現代の韓国財閥の後継者争いでも骨肉の争いが繰り広げられると韓国メディアはそれらを「王子の乱」と呼んでいます。
以上、今週の歴史小話でした!
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