#0194【ワンマンになるには仕掛けが必要さ(徳川綱吉②)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は、徳川幕府の歴代将軍の中でインパクトの強い「生類憐みの令」を出した徳川綱吉を全三回に亘って紹介します。第二回です。
(前回:No.193【あくまでも中継ぎとしてのトップの座(徳川綱吉①)】)
中継ぎ、ピンチヒッターとして将軍に就任した徳川綱吉ですが、彼は自分の理想の政治を実施したいとの思いを持っていました。
将軍になる前には館林一帯の大名でした。
また、学問への造詣も深く、特に儒学の教えについては自ら講義を行うまでの知識と理解を深めていきます。
しかし、徳川幕府のシステムでは将軍はハンコを押すだけの存在となっていました。
しかもそれを制度化したのは、初代将軍徳川家康公、江戸時代においては神君(しんくん)と神の如く崇め立てられ、現代においても日光東照宮に祀られている人物です。
そんな偉大な人物が作り上げた制度を前にして徳川綱吉は、どうやったら自分の意思を表明できるのかを考えました。
その結果、生まれた制度が「側用人(そばようにん)」です。
側用人は将軍の秘書官のようなものですが、老中(大臣)たちが決めた政策や作成した書類を、将軍に渡す前に受け取ります。
そこで側用人に「これでは上様(将軍)は御納得されまい。」と言わせることによって、将軍は単なるハンコを押す存在から政策に対する拒否権を有することになったのです。
加えて、この側用人は将軍が自分で任命できます。なぜなら初代家康の時代にはなかった役職ですから、既得権益として名門一族から選出される老中とは違って、しがらみがないからです。
将軍は自分にとって、有能・有益と思える人物を側用人として起用しました。
三代将軍家光と四代将軍家綱は、完全に老中のためのハンコマシーンと化していましたが、長く組織を保つためには老中たちによる集団指導体制が有効な面もあります。
例えば、11歳の若さで将軍になった家綱の時代には由井正雪の乱(慶安事件)という動乱がありましたが、幕府の根幹が揺らぐことなく政治は安定していきます。
しかし、綱吉は自分の理想の政治をしたい。そのためには実権を老中から奪わなければならなかった。
そのために将軍と老中の間に「側用人」というクッションを噛ますことによって事実上の拒否権を有することを思いつき、実行しました。
これにより、綱吉は自分が理想とする政治を実行するための仕掛け・仕組みを手に入れることができました。
彼が理想とした政治とは何か。その代表例が「生類憐みの令」です。
この生類憐みの令は、いったい日本社会にどのような影響を与えたのでしょうか。
続きは次回。
以上、本日の歴史小話でした!
(続き:No.195【生類憐みの令が目指したものとは何か(徳川綱吉③)】)
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