#0245【高麗の太祖王建(朝鮮半島の王)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は朝鮮半島の歴代王朝初代国王を紹介しています。
前回紹介したとおり超大国唐の力を借りて朝鮮半島を統一した新羅も9世紀後半となると、その勢力に衰えが見られ始めます。
唐自体も10世紀初頭に滅亡してしまいました。朝鮮半島では新羅王朝の力が弱まると旧高句麗領と旧百済領をそれぞれ中心とした後高句麗と後百済の勢力が生まれ、朝鮮半島は後三国時代と呼ばれる混乱期に突入します。
後高句麗を建国した弓裔(きゅうえい)は、北方での新羅反乱軍の指導者から身を起こしました。この部下に王建という人物がいました。
弓裔は権威を強化するため、自らを弥勒菩薩と自称して仏教を利用しましたが、菩薩とは程遠い傲慢な性格をしており、粗暴な人物でした。
暴君となった弓裔は918年に追放され、王建が新たな指導者へと推戴(周囲から担がれること)されました。
王建は、高句麗の後継者であることを自任し、919年に国名を「高麗」としました。920年には後百済に圧迫されていた新羅と同盟を結びます。
926年に後百済は新羅の首都を攻め落とすほど強く、高麗との勢力争いは一進一退を続けますが、930年に高麗が後百済に大勝します。933年に王建は、唐が崩壊したあとに分裂した中国の一王朝に朝貢(貢ぎ物をもって傘下に入る意思表明をすること)して高麗国王に任じられました。
934年には後百済から休戦の申し出がありましたが、王建はこれを退けます。
935年には新羅王朝最後の王が帰順、936年には後百済も内紛で瓦解して投降、王建の手によって朝鮮半島は再び統一されました。
この高麗の時代は約400年続きますが、この間にモンゴルの時代で世界が狭まり、ヨーロッパ世界にも知られるようになったため、現在でも英語で朝鮮・韓国のことをKOREA(コリア←コリョ(高麗の朝鮮発音))と呼ばれています。
そして、高麗は非常に高品質の陶磁器生産をしていたため、青磁のことをkoreaとも呼ぶようにもなりました。
統一後の王建は、中国との関係を重視しつつ、日本にも二度にわたって使者を送って友好と通商を求めましたが、国風文化真っただ中の平安貴族たちはこれを拒絶しました。
王建は、前王朝である新羅の貴族や豪族たちも優遇し、混乱を最小限に抑えるとともに他国からの移民も受け入れ、国内の復興と発展に尽力しました。
943年、67歳で死去。死の前には、高麗の後継者たちが守らなければならない掟を十か条に纏めます。
賞罰の公平さや仏教を尊ぶこと、むやみに中国の風習に染まり過ぎないことを遺訓としました。
王建は、今もその偉業や人格から多くの人の尊崇を受けて高く評価されています。
以上、本日の歴史小話でした!
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