#0092【菅原道真と昌泰の変(日本、9C末-10C初)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

887年に起きた阿衡の紛議で注目をあびた菅原道真は、845年に学者一家に生まれます。

幼少期から天才と称されて、18歳で文章生(もんじょうしょう:高等学問を学ぶ選抜生)となり、32歳で文章博士(もんじょうはかせ:大学教授)になりました。

32歳での文章博士就任はとても早いもので、後世において「学問の神様」となる由縁となります。

学者としては順調に出世しますが、菅原氏は貴族としては中級クラスであったため、中央での出世は望めず887年の阿衡の紛議において藤原基経に意見書を提出したときは讃岐の国司(香川県の知事)でした。

国司の任期を終えて京へ戻ると宇多天皇と基経の双方から信頼され、894年には遣唐使を拝命することになります。

日本国内が政争に明け暮れていたこともあり、838年に第19回の遣唐使が派遣されてから約50年ぶりの派遣計画です。

しかし、907年に滅亡することになる唐は、894年時点で既に荒れた状態となっていることもあり、菅原道真は遣唐使廃止を建議し正式に中止となりました。

以降、しばらくの間、日本と中国の間には正式な交流はなくなりましたが、逆にこれによって国風文化という日本独自の文化が開いていく基盤が成立しました。905年には初の勅撰和歌集(天皇の命令によって編纂された和歌集)である古今和歌集が成立します。

その後も順調に出世していった道真ですが、基経の死後に跡を継いだ藤原時平と権力争いをすることになります。

道真は、900年に55歳で右大臣の地位に就任します。ライバルの時平は左大臣の地位にあり道真の一階級上でした。

宇多天皇は天皇の位を藤原氏の間に生まれた息子の醍醐天皇に譲っていました。

宇多天皇には橘氏との間に別の皇子がいました。醍醐天皇の異母弟にあたるこの皇子には道真の娘が妻となっていました。

こういった状況下「道真が自分の娘婿である皇子を醍醐天皇の代わりに天皇にしようと画策している」との密告がありました。

時平と醍醐天皇は、この密告を信じて(あるいは利用して)道真を太宰府へと左遷させました。これを昌泰の変といい、901年のことでした。

「東風(こち)吹かば、匂い起こせよ、梅の花、主なしとて、春な忘れそ」

太宰府に出発する前に京の自宅の梅を眺めて道真が詠ったものです。

実質的な流罪に処された道真は903年に太宰府で没します。

道真は死後に怨霊となったとされ、ライバル時平はそのせいで若死にしたと考えられ、清涼殿(天皇の宮殿)には落雷が起きます。宮中は恐怖に戦慄します。

怯えた醍醐天皇は、昌泰の変における道真の罪状は全て誤りだったと公式に認めて、死後ではあるものの道真に対して太政大臣の地位を追贈しました。さらに、鎮魂のために太宰府天満宮が建立されました。

太宰府天満宮は学問の神様、菅原道真公を祀っていることから、そのお守りは合格祈願として今も信奉されています。

以上、本日の歴史小話でした!

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