#0078【承和の変と応天門の変(日本、9世紀中盤)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

藤原氏内部抗争は藤原北家の勝利となりました。

藤原冬嗣の息子、藤原良房は他氏排斥に動きだし、人臣初の生前での太政大臣就任、人臣初の摂政就任まで果たします。

太政大臣はあくまでも「臣」です。天皇の部下であり、皇族ではない身分です。しかし摂政とは「天皇代行」です。臣下の身分で初めて藤原良房が摂政となったことは非常に重要な意味を持っています。

藤原氏の内部抗争の終焉は良房の父の代でようやく勝利を収めたばかりです。そこからたった一代でここまで権力・権威を増大化させられた理由は何だったのでしょうか。

良房は、まず「承和(じょうわ)の変」で他氏排斥を進めます。それまで皇太子だった恒貞親王を廃立し、良房の妹が生んだ道康親王(のちの文徳天皇)を皇太子にすることに成功します。

承和の変の背景ですが【0077:薬子の変】で権力を確立した嵯峨天皇は、自分の息子にではなく弟に天皇位を譲ります。淳和天皇です。

感激した淳和天皇は、自分の跡を仁明天皇(嵯峨の息子)に譲ります。

仁明は、お返しとばかりに自分の息子である道康親王を差し置いて、淳和の息子の恒貞親王を皇太子としました。

この変則的な皇位継承の保証人となっていたのは、まだ存命であった嵯峨上皇でした。

その嵯峨上皇が死んだ二日後に謀反の計画があったとして恒貞親王派の貴族たちが一斉に摘発されて左遷されていきました。恒貞親王は皇太子の地位を道康親王に譲って政治の表舞台から去ります。これが承和の変です。

ここには嵯峨上皇の妻であった橘嘉智子の意向を汲んだ良房が暗躍しました。嘉智子としては自分の直系の孫である道康に天皇になって欲しいと願っていたからです。(異論・異説もあります。)

嘉智子は、この事件の処理を大臣クラスよりもワンランク下である中納言(ちゅうなごん)だった良房に委ねています。842年のことでした。

850年に道康親王は文徳天皇として即位します。

文徳天皇には良房の娘が嫁いでいましたが、良房の娘ではない紀氏(きのし)出身の妃から生まれた第一皇子の惟喬親王を皇太子にしようとします。しかし、良房の圧力もあり、良房の娘が生んだ惟仁親王を皇太子としました。

皇太子になったとき惟仁親王は生後8か月でした。

857年に良房は太政大臣となり、名実ともに権力を一手に握ります。文徳天皇が858年に急死すると惟仁親王が即位して日本史上初の子どもの天皇、清和天皇となりました。

当時の出産・育児は母の実家で行われていたため、まだ9歳であった清和天皇も母の実家にいました。すなわち良房の家です。幼い子どもを自宅に抱えた太政大臣藤原良房は、事実上の摂政(天皇代行)となりました。

さらに866年に平安京の応天門が放火・延焼する事件が起きると、藤原氏以外で高い地位にいた貴族たちを首謀者として追放することに成功しました。これにより、良房の地位・権勢は不動のものとなって正式に摂政に就任しました。

摂政の地位は良房の養子(兄の子)基経へと継承され、藤原摂関政治の始まりを迎えます。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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