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#0233【ペロポネソス戦争(古代ギリシア、世界史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。前回は古代ギリシア文化の全体像について触れました。
今回はNo.186【ペルシア戦争】の続きです。

BC479年にプラタイアの陸上戦で、アテネ・スパルタ連合軍がペルシアを倒すと、ペルシアはギリシアから撤退します。

ペルシアは現在のイラン・イラク・トルコ・エジプトを領有していた大帝国でした。ギリシアは戦争に勝利したとはいえ、油断すると再びペルシアが攻めてくる可能性が秘められていました。

そのため、ペルシアが攻めてきたときの備えとして、ギリシア諸都市は多国間安全保障協定を結び、その盟主・リーダーとしてアテネが指導的立場に立ちます。ちなみにデロス島というところに同盟本部が置かれたことから、これをデロス同盟と呼びます。

デロス島にはアポロン神殿が置かれ、各ギリシア諸都市は軍船や金銭をデロス島に拠出し、神殿で運用がなされていました。しかし、ペルシア戦争からほどなくして、ペルシアの脅威は薄まります。

巨額の資金が集まり軍船も拠出済みであることから、当初の目的がなくなっても解散とはならずに、流通・海運・交易・文化を担うものに性格を変えていきます。

一方でペルシアの脅威がないのではデロス島に拠点を置く意義はないとの判断から、軍船の運用拠点、資金の保管金庫をデロス島からアテネへと移すことになりました。

現代日本においても特定財源として制定された目的税が一旦導入されると、他の名目に流用されていく例がありますが、古今東西に関係なく、一度発生した利権が手放されることがない好例かと思います。

アテネは移管した資金を利用して、パルテノン神殿の建設を実施するなど、同盟基金の私物化を図ります。不満をもったアテネ以外のギリシア都市国家が離脱を試みるとアテネは軍船を派遣し、相手を制圧。武力によって強権的支配をみせました。

こういったアテネの姿勢に不満をもったギリシア諸都市を、古代ギリシアのもう一方の強国であるスパルタが応援します。

スパルタは紀元前6世紀末からペロポネソス半島(ギリシア半島の特に西側に位置する半島)の諸都市とペロポネソス同盟を形成しており、その盟主として存在していました。海軍力を背景に勢力を伸ばすアテネを苦々しく思っていたのです。

アテネとスパルタは、共通の敵であるペルシアがいたときには協力をしましたが、その脅威も薄れると、対立が先鋭化していきました。遂に両者は、戦争状態に陥ります。ペルシア戦争が終わってから20年も経たないBC460年から第一次ペロポネソス戦争を戦い、一進一退の攻防を繰り広げます。BC445年にアテネとスパルタは講和を結び、30年不戦条約を結びます。

しかし、BC431年に30年経たずにペロポネソス戦争が勃発し、BC404年まで戦いを繰り返しました。最終的にアテネの威信・信頼が低下していたことからアテネは孤立無援の状態となり、包囲され、BC404年に降伏してスパルタが勝利。デロス同盟は解体され、古代ギリシアの盟主の座はアテネからスパルタへと移管されました。

「驕る平家は久しからず」は日本の中世史の言葉ですが、いずれの時代も洋の東西を問わず、慢心したトップは、やがてその座を奪われてしまいます。

盟主の座についたスパルタも30年後には、その地位を別のギリシア諸都市テーベに奪われます。さらに、そのテーベも古代ギリシア半島の北方にいたマケドニア人に敗れてしまい、ギリシア人はマケドニア人に支配されることになったのでした。

団結すれば強大なペルシアにも勝てましたが、内紛を繰り返した古代ギリシアの諸都市は自分たちよりも遥かに小さな国であったマケドニアに敗れ去ったのです。

ペロポネソス戦争は、内紛の無益さを現代に伝えてくれているように思えてなりません。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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