安楽死の違憲性を棄却したいつぶやき~ALS患者嘱託殺人裁判に触れながら

まえがき

 仏教が説くには、生きても生きなくても苦しみなのだよ。であれば、生きられるなら生きればいいし、生きられないなら生きなくていい。なんら話としては難しくない。漱石の描いた名前のない猫も、最期は壺の水に落ちた運命を、そうして受け入れ往生したではないか。生きられない運命にジタバタ抗うと苦しむ。運命に抗い生きられた、と胸を張ったところで、ハードルを一つ越えただけの話。いずれこの肉体は終わる。


 命に価値があると無根拠に考えるから、絶対に死ぬな死んではいけない、と足元がうわついたままでのたまう。だから、死ぬななんて言うなら生きられる保証をせよとか、かつてある人が流行させたように、「生きさせろ」なんて話になる。

 念のため、憲法が規定するのは生きる権利の保証だ。生きること~生存の保証ではない。すなわち、ある国民が生きることを望まないなら、生きる保証や保障をしなくても違憲ではない。生きることは本人の権利とすれば、本人の選択により放棄できるからだ。
 生存を保証せよなんて憲法が言ったら、下に書くように、誰も親も公務員も医者もできないではないか。それこそ国民の行動を「生存」に規定してしまいかねない。(まさか憲法上の義務を果たすために生きるのでもあるまい。)

 ずっと昔からこう自分は思っているが、自分の見る限り、このように
 ・生存の権利 と
 ・生存すること
とを切り分けて語る記事を見たことがない。このように言えば、安楽死は必ずしも生きる「権利」を阻害せず違憲ではないと説明できると思うのだが。自分の論は納得されないだろうか。

 ふと、ALS患者嘱託殺人事件の判決文(令和6年3月5日)を見つけて読んでみた。「生命の高貴さ」をやはり無根拠に謳うと共に、弁護人が提示した憲法13条(生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利の尊重)で判断を検討している。

 しかしながら、生命の高貴さに加え、自己決定権・幸福追求権・個人の尊厳はいずれも個人が生存していることが前提であると解されることなどからすれば、たとえ恐怖や苦痛に直面している状況であったとしても、憲法13条から直ちに、「自らの命を絶つために他者の援助を求める権利」や「自らの死を援助してくれる医療従事者がいる場合に、その医療従事者が刑事罰から免れるように求める権利」などが導き出されるものではない。

判決文p19

 この一文には疑念がある。自己決定権・幸福追求権・個人の尊厳の主張は、生存中に行うことだ。主張した結果どうなった云々は、主張した本人が受け入れさえすれば、考慮の必要はないのではないか。
 なのでこの、結果を勝手に織り込んで考えている判決文からは、国民は死を可能な限り避けねばならないという裁判官の思い込みが感じられる。
 だいたい、憲法が生存の保証を法的に望むなら、誰も医者なんてやれない。判決文にも似た記述がある。

(前略)日々恐怖に怯えたり、絶望したりしつつも、身体的自由がきかないことで自殺することもままならないような患者からの嘱託であっても例外なく嘱託殺人罪の罪責を負うとすれば、上記患者らの嘱託に応えようとする医療従事者が現れず、結果的に、上記患者らに耐え難い苦痛や恐怖・絶望を強いることになり、余りにも酷といわなければならないような場合もあり得るといえるのであって、(後略)

同判決文p19~p20

 もし、死んではいけないとルール付けするなら、生まれることが自動で過ちになる。生まれたから必ず死ぬのであり、生まれなければ死ぬことはない。それでも死んではいけないのだ!と我を張ると、これ幸いと、はやりの反出生主義がうってつけの対論になろう。
 そもそも、繰り返しになるが生存とは権利なのだ。断じて義務ではない。つまり生きろと命じられる筋合いもない。権利とは、放棄できるものを権利と言う。権利を望まないのだから、その人に対する安楽死は権利を侵害しないではないか。
 この裁判は現在上告中のようだ。


あとがき

 冒頭に仏教を出したので、仏教で閉じてみよう。
 文中で、命に価値があるかと書いた。自分の伺うところにおいてこれについて仏教では、「ある」も「ない」も誤りだと述べる。ふざけるな!とかは無しで。
 もし、価値が「ある」と言うと上に書いたようになるし、価値が「ない」と言うと無法状態の世になる。どちらもふさわしくない。いずれかを仮定すると不都合となる。すなわち仮定する、および仮定せざるを得ないことが、人間の見識の過ちであると。
 何やら量子論の実験を思い出しますね。
 これを、すでに2千年前に言っている。

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